2022年9月5日月曜日

三業通り(亀戸)①|亀戸花街の見番があった通り

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 亀戸天神の北にある東西の通り。ネットなどではこの通りを三業通りと書いているサイトが散見されます。果たして本当にこれは三業通りなのか?分かりません。公的なサイトや地図には、この通りが三業通りだとは一切書かれていません。もしかしたら、過去にそう呼ばれていたのかもしれません。


 この通りにある自治会館、これが、過去、ここが花街であった頃の見番(城東三業組合事務所)、いわゆる芸者衆の手配をするところだったのです。だから、この通りを三業通りといっているのかもしれませんし、そう呼ばれていたのかもしれません。


 旧見番の先には、明らかに料亭であったろう建物が。


 それにしても、そんな三業通りの南の路地裏は、こんなあからさますぎるほどの下町住宅街。その南には、亀戸天神があるんです。
 なんだか、こんな住宅街のすぐそこに花街、繁華街があったなんて全く想像できません。しかも交通の便もそんなに良くないですし。ですが、昔の繁華街は、交通の便は関係なく、そもそも江戸まで遡れば公共交通機関なんか無かったわけですし。人が集まるところというと、景色の良いところ、大きな神社、お寺などということになり、ここも、亀戸天神という大きな神社があり人が多く集まったため花街として発展したのです。


 歌川国貞の「當時高名会席尽 亀戸玉屋」という芸妓が描かれた美人画が残っています。亀戸天神の裏門あたりに玉屋という料亭があったようです。


 江戸名所図会には、亀戸天神の西側に「うら門」が書かれており、そのすぐそばに「茶や」があります。これが玉屋なのかどうかは分かりませんが、裏門だけでなく、門前にも「茶や」が書かれていますし、やはり、亀戸天神の門前は江戸時代から繁華街であったんだろうなと想像されます。


 では、その後、花街になった亀戸天神の北側はどうかというと、津軽越中守と大名屋敷があったようです。これは、どう考えても江戸時代は、亀戸天神の北側は繁華街ではなかったようですね。北側が繁華街となったのは、あくまでも明治以降ということになりますね。
 そんなこんなで、明治38年(1905)、亀戸天神北が三業地として指定され名実ともに花街となりました。


 話はそれますが、三業通りを西に行って横十間川に近づくにつれて町工場というか、家内工業所のような建物が目立つのも、下町ならではの光景なのか。




 町工場の話はいいとして、明治後期に花街として正式にスタートした亀戸ですが、大正12年(1923)の関東大震災で、壊滅的被害を受けた浅草十二階下の銘酒屋(私娼街)、一部は、玉の井へ移動して、一部が亀戸にやってきたのです。こうして、亀戸は芸者がいる花街でありながら、私娼もいるかなりな繁華街に発展したのです。


 三業通りの北側が、その花街と私娼街が入り混じった卑猥な繁華街だったのですが、今、その路地裏を歩いても全くそんな気配はなく、ただの下町住宅街です。
 そんな下町住宅街を歩いていると、たまにポツンと過去の遺構のような建物に出くわします。


 これなんかも、看板建築のような、集合住宅のような、店舗兼集合住宅だったのでしょうか。




 そんな路地裏を歩いていると見つけました、電柱の「遊園支」の標識。これが、亀戸花街の痕跡の一つなわけです。芸者、私娼、大人の遊園地であった証しなのです。そう、この辺りには、きっと料亭や銘酒屋(私娼窟)、カフェーなどがたくさんあったのです。


 遊園地帯の寿司屋。の遺構か?こんな路地裏に寿司屋があるなんておかしくないですかね。大人の遊園地だった名残なんですかね。


 路地裏にあるタイル貼りの建物。タイル貼りの建物は、カフェー建築であることもありますが、これはどうなのでしょう。


 ここも路地裏なのですが、上の建物は、明らかに料亭であったであろうと思わせる建物。
 花街というか、私娼窟というか、カフェー街は、ここより北にも広がっていたようです。そして、北には三業通りに並行するように、その昔は商店街だったのではないかと思われる通りがあります。

業通り(亀戸)の地図、アクセス

東京都江東区亀戸3丁目

     


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