四谷・荒木町の飲み屋街車力門通り沿いにあるお稲荷さんです。
金丸稲荷の背後には、荒木公園がありますが、荒木町の花柳界が健在であった頃は、芸者さんの派遣取り次ぎを行ういわゆる「見番」がありましたかから、荒木町花街の中心部であったような場所と言っても過言ではないでしょう。
荒木町の他の記事でも述べてますが、この辺りは美濃国高須藩藩主・松平摂津の守の上屋敷がありましたから、この金丸稲荷神社も、江戸時代は摂津守の屋敷内にありました。と言いますか、松平摂津の守がこの地を拝領した天和3年(1683)に、屋敷の守護神として創建されたといわれています。ですので、これほど小ぢんまりとしたお稲荷さんなのでしょう。
金丸稲荷の背後には、荒木公園がありますが、荒木町の花柳界が健在であった頃は、芸者さんの派遣取り次ぎを行ういわゆる「見番」がありましたかから、荒木町花街の中心部であったような場所と言っても過言ではないでしょう。
荒木町の他の記事でも述べてますが、この辺りは美濃国高須藩藩主・松平摂津の守の上屋敷がありましたから、この金丸稲荷神社も、江戸時代は摂津守の屋敷内にありました。と言いますか、松平摂津の守がこの地を拝領した天和3年(1683)に、屋敷の守護神として創建されたといわれています。ですので、これほど小ぢんまりとしたお稲荷さんなのでしょう。
面白いのは、狛狐さんが、玉垣から外を見ているような配置になっていること。普通、鳥居と本殿の間に居るような気がするのですが。まぁ、素人の私は、何が普通なのかは分かりませんが。狭い境内で、社殿の向きと鳥居の向きが垂直に配置されているため、しょうがないのか、何なのでしょう。
土地柄、玉垣には、四谷三業組合や料亭の名前がたくさんあります。
摂津守のお屋敷は、明治維新以降、解放されたわけですから、金丸稲荷が庶民に開放されてからは、金丸稲荷は、荒木町の花街の発展と共にあったわけですよね。
それにしても、これらの奉納者の料亭は、ほとんど残っていないのでしょうね。
ご祭神
宇迦能御魂大神
金丸稲荷神社の地図、アクセス
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