2020年1月4日土曜日

車力門通り|四谷・荒木町花街の痕跡、今は、大人の飲み屋街

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 四谷・荒木町は、明治から昭和にかけて花街として栄えました。人形町や、神楽坂など、首の皮一枚で料亭が残っている地域とは違い、荒木町の花柳界は絶滅しているものと思われます。
 しかしながら、入り組んだ細い路地があったり、その路地に飲食店があったり、石畳があったり、街の構造に花街の痕跡がありますので、好奇心をそそる街であります。




 甲州街道にある車力門通りの門の向こうは、このような細い通りになっており、飲食店の看板が連なっております。見て分かります通り、車力門通りに入りますと、すぐ下り坂になっております。荒木町花街は、このすり鉢状地形に形成されていたのです。



 なぜ、この通りは、車力門通りというのか。それは、江戸時代、この通りの先に美濃国高須藩藩主の松平義之の上屋敷があり、その裏門に通じていました。その裏門の装飾が御所車の文様であったことから、車力門通りと呼ばれるようになりました。江戸切り絵図にも、「車力門ヨコ丁」と記されています。




車力門通り沿いには、いくつもの細い路地があります。路地にも、飲食店が密集しています。


 この路地は、石畳が残っており、花街の痕跡ではないかと思います。お正月の散策でしたので、営業しているのかなんなのか分かりませんが、下の写真の建物は、木造のなんとも風情のある建物で、花街の名残かもしれません。



  下の写真の建物も料亭だったのでは?と思わせるような佇まいです。
 この路地は、柳新道通りという通りと、杉大門通りにつながっています。この入り組みようがたまりませんね。



 下の写真の路地も、いかがですか?石畳です。



 奥まで行くと、料亭だったのかと思わせるような建物をリノベーションしたかのような建物が、飲食店として生き残っています。







 坂を下り切ると、通りは大きくクランクします。このクランクを曲がると、金丸稲荷神社があります。
 金丸稲荷神社の裏には、荒木公園という公園がありますが、この公園に見番があったようです。見番とは、芸者さんの派遣取次所のようなところです。かなり広い敷地ですので、その規模の大きさが分かります。


 この神社の脇道の細い路地は、「荒木町奥の細道」といわれており、この先に、この荒木町が花街となるきっかけをつくった場所があるのです。


 荒木町奥の細道を進み、さらに坂を降ると、ビルの谷間に池があります。策(むち)の池です。今では、ビルに囲まれ薄暗く、小さな池ですが、以前は、もっと大きく、また、水は、坂の上の井戸(策の井戸)から湧いており、そこから滝となって、この池に注いでいたそうです。
 この池は、先にも書きました美濃国高須藩藩主松平摂津の守の上屋敷内の庭園でありました。明治維新後、屋敷が解放されることになりました。滝の下の大きな池、とても風光明媚な場所でしたので、策の池の周囲に茶屋ができ始め、荒木町の花柳界が形成されていったのです。もともと、摂津の守の屋敷でしたから、このあたりでは、津の守として名残が残っていて、荒木町の芸者は、津の守芸者と呼ばれていました。
 今では、湧き水がなく、滝もなくなり、池も小さくなって、周囲は、住宅になっていますが、以前は、この策の池の周囲に茶屋や料亭があったようです。


 車力門通りに戻って先を歩くと、これまた料亭であったかのような古びた建物、そして、その脇には、石畳の残る細い路地があります。


 その先も、飲食店が軒を連ねています。



力門通りの地図、アクセス



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