車力門通りにある金丸稲荷神社の脇道。金丸稲荷神社に、「荒木町奥の細道」と道標があり、その下には弁財天と道標があります。そうです、この奥の細道を行くと津の守弁財天があります。すり鉢形状の荒木町の最深部に行く道なのです。
細道に入ると、正面に木造の建物があります。
その建物の手前で、通りは急激な下り坂になります。すり鉢地形最深部の始まりです。
下り坂の中腹に先程の木造建築があります。この佇まい、渋い!渋すぎます!まだ営業されているのでしょうか。それとも、もう廃業されているのでしょうか。ネットで調べても詳しくは出てきませんが、どうやら一見さんお断りなお店のようです。
行ってみたい・・・
お店の手前で、下り坂は直角に折れ曲がり、更に荒木町を下っていきます。
そして、すり鉢・荒木町最深部は、津の守弁財天と、策(むち)の池になります。
ビルに囲まれ薄暗く、ちっぽけな池ですが、以前は、もっと大きく、また、水は、坂の上の井戸(策の井戸)から湧いており、そこから滝となって、この池に注いでいたそうです。策(むち)と呼ばれているのは、徳川家康が鷹狩りの際に、その井戸で策(むち)を洗ったので、そう呼ばれたそうです。
今では、ビルに囲まれているこのような場所で、徳川家康は鷹狩りをしていたんですね。そして、井戸から水が湧いて、滝となって大きな池があったなんて、今では考えられませんね。
天和3年(1683)より、この辺りは、美濃国高須藩藩主松平摂津の守の上屋敷内となりましたが、明治維新後、屋敷が解放されることになりました。滝の下の大きな池、今では考えられないとても風光明媚な場所でしたので、策の池の周囲に茶屋ができ始め、荒木町の花柳界が形成されていったのです。もともと、摂津の守の屋敷でしたから、このあたりでは、津の守として名残が残っていて、荒木町の芸者は、津の守芸者と呼ばれていました。
このすり鉢・荒木町の最深部が、実は、荒木町花街の発祥の地だったのです。
今では、湧き水がなく、滝もなくなり、池も小さくなって、周囲は、住宅になっていますが、以前は、この策の池の周囲に茶屋や料亭がたくさんあったようです。
荒木町奥の細道の地図、アクセス
東京都新宿区荒木町10
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