夕やけだんだんをおりて谷中銀座商店街に入る手前にある路地を右に入り、三崎坂方面に歩いていると右手に現れるお寺です。山門前には、「ほたる沢 はぎ寺」と彫られた石碑があります。この宗林寺の坂下は、今はよみせ通りですが、その昔は、藍染川が流れていました。下の江戸時代の地図「江戸切絵図:安政三年」を見てみると、中央東あたりに宗林寺があります。宗林寺から藍染川までは、緑色になていますので、山林、土手であったことが分かります。今では、びっしり下町家屋が建ち並んでいるのですが。
今では、藍染川は蓋をされ暗渠化されており、生活排水が流れるドブ川のようなものでしょうが、昔は、蛍が生息するくらいきれいな川だったのですね。そして、周辺は今は住宅街ですが、この宗林寺まで蛍がいたのですから、自然豊かな土地だったのでしょう。
また、石碑には、はぎ寺と彫られています通り、昔は萩が多く植えられていたために、はぎ寺と呼ばれていたようです。
また、石碑には、はぎ寺と彫られています通り、昔は萩が多く植えられていたために、はぎ寺と呼ばれていたようです。
周囲の環境が変わっても、宗林寺自体は緑豊かなお寺です。参道から境内を眺めますと、ご覧のように緑に覆われています。境内左手に見える大木はクスノキで、台東区の保護樹木に指定されていて、とても立派な木です。こんなところで、蛍が見られたら最高でしょうね。ぜひ、へび道の蓋をとって藍染川に再度日の光を当てて、蛍を放流して・・・江戸の景勝の地だった日暮らしの里を再現したいですねと、私の勝手な妄想です。
境内を入っていきますと、左手に立派な銅鐘があります。この銅鐘は、台東区の有形文化財になっており、台東区教育委員会の説明板には、次のように記されています。
『銅鐘(台東区有形文化財)
宗林寺は、妙祐山と号する日蓮宗寺院である。初めは駿府(静岡県静岡市)に創建されたという。その年代は不明だが、天正年間(1572〜92)に江戸昌平橋外に移り、後に上野東寺町に移転したという。さらに元禄14年(1701)に当地へ転じた。(「御府内寺社備考」)。
本鐘は銅製、鋳造。大きさは、総高153.2センチメートル、口径86.6センチメートル。宝暦4年(1754)、鈴木播磨大掾藤原定久(すずきはりまだいじょうふじわらのさだひら)によって製作された。
本鐘を鋳造した、鈴木定久は江戸中期中葉に活躍した江戸の鋳物師であり、神田に居住したことが作例の銘文から知られる。定久の活動期間は宝暦年中(1751〜64)の短期間で、作例は銅鐘、銅常香盤、銅燈籠など八例が知られる。特に銅鐘は、本鐘を含めて五例が知られるが、現存が確認できるのは二例にとどまる。
本銅鐘は鈴木播磨大掾藤原定久が制作した遺品の内、現存するものとして希少であり、その重要性はきわめて高い。さらに、近世の鋳物師の制作活動や、鋳造技術を知る上で貴重な遺品である。
平成29年3月に台東区有形文化財(工芸品)として台東区区民文化財台帳に登録された。』と記載されており、江戸中期からある大変貴重な銅鐘だということが分かります。
『銅鐘(台東区有形文化財)
宗林寺は、妙祐山と号する日蓮宗寺院である。初めは駿府(静岡県静岡市)に創建されたという。その年代は不明だが、天正年間(1572〜92)に江戸昌平橋外に移り、後に上野東寺町に移転したという。さらに元禄14年(1701)に当地へ転じた。(「御府内寺社備考」)。
本鐘は銅製、鋳造。大きさは、総高153.2センチメートル、口径86.6センチメートル。宝暦4年(1754)、鈴木播磨大掾藤原定久(すずきはりまだいじょうふじわらのさだひら)によって製作された。
本鐘を鋳造した、鈴木定久は江戸中期中葉に活躍した江戸の鋳物師であり、神田に居住したことが作例の銘文から知られる。定久の活動期間は宝暦年中(1751〜64)の短期間で、作例は銅鐘、銅常香盤、銅燈籠など八例が知られる。特に銅鐘は、本鐘を含めて五例が知られるが、現存が確認できるのは二例にとどまる。
本銅鐘は鈴木播磨大掾藤原定久が制作した遺品の内、現存するものとして希少であり、その重要性はきわめて高い。さらに、近世の鋳物師の制作活動や、鋳造技術を知る上で貴重な遺品である。
平成29年3月に台東区有形文化財(工芸品)として台東区区民文化財台帳に登録された。』と記載されており、江戸中期からある大変貴重な銅鐘だということが分かります。
本堂前には、ちょこんと浄行菩薩があります。お題目を唱えながら、浄行菩薩に水をかけると、穢れを清めてくれるそうです。
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