夕やけだんだんをおりて谷中銀座商店街に入る手前にある路地を左に入り、三崎坂方面に歩いていると左手に立派な山門が現れます。こちらは、日蓮宗のお寺、日照山・長明寺です。日暮里方面から七面坂を下って歩いてくると、左手に広大な墓地が見えます。境内も広々としており、山門から本堂までは石畳の参道になっております。春は、境内の枝垂れ桜がきれいだそうです。
境内には古い遺構がなかなかにあり、往古を偲ばせるお寺であります。
これだけ大きなお寺ですので、由緒ありそうですが、江戸切絵図には記載がありません。江戸切絵図上の同じであろう場所には長泰寺との記載があります。江戸時代は、長泰寺という別のお寺だったのか、それとも記載ミスなのか、それとも全く別物なのかわかりません。今現在、この辺りに長泰寺というお寺はなさそうです。
境内には、古い鬼瓦が飾られており、弘化2年(1845)の本堂や書院の鬼瓦がありますので、いずれにしましても長明寺は江戸時代から続く古刹だということが分かります。
墓地入口には、「満願三十番神安座」と彫られた題目塔があります。三十番神とは、30の神が守護するという日本の神道と仏教が混合した信仰です。
墓地の奥には、銅鐘があります。台東区教育委員会の説明板には、次のように記されています。
『銅鐘
『銅鐘
本銅鐘は、総高122.9センチ、口径75.1センチ。銘文によると天和2年(1682)初冬(10月)16日、屋代安次が自らの逆修供養のために寄進した。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るために仏事を修することである。撰文は下総国飯高(現、千葉県八日市場市)の日蓮宗檀林所として著名な飯高寺の僧性孝、書は長明寺四世住職日習。鋳物師(いもじ)は椎名伊予良寛。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家であった。
椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師で、およそ36点の作品を残している。銅鐘が19点、銅灯籠が2対4点、宝塔・水盤が各1点である。特に宝塔は上野寛永寺にある将軍墓所のひとつで、四代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を持った著名な鋳物師であったことがわかる。』と記されており、この銅鐘は価値のとても価値があるようです。また、屋代安次とは誰なのか存じ上げませんが、かなりの実力者だったのでしょう。
椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師で、およそ36点の作品を残している。銅鐘が19点、銅灯籠が2対4点、宝塔・水盤が各1点である。特に宝塔は上野寛永寺にある将軍墓所のひとつで、四代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を持った著名な鋳物師であったことがわかる。』と記されており、この銅鐘は価値のとても価値があるようです。また、屋代安次とは誰なのか存じ上げませんが、かなりの実力者だったのでしょう。
銅鐘の隣には、お稲荷さんの祠があります。
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