池之端の忍小通りにある真宗大谷派の忠綱寺。小振りながら立派な山門のお寺です。忍小通りで瓦屋根の山門は、この忠綱寺と隣の休昌寺だけです。
山門そばに忠綱寺の由緒が次のように記されています。
『「渡邉の網」・「槍の半蔵」由縁の寺
當、忠綱寺は人皇五十二代に始まる所謂嵯峨源氏の流れをくみ左大臣源融から四代後の源網が摂津の国、渡邉に住まいしたところから姓を渡邉と名乗るようになる。羅生門の鬼退治で有名な「渡邉の網」がこの源網である。更にこれより23代目が渡邉半蔵源守網である。譜代である徳川家康に弘治3年(1557年)16才で出仕する。桶狭間の戦いより2年後の永続5年(1562年)三河八幡の戦いで今川の将、板倉弾正の率いる敵と戦い防戦一方にになる時その殿りを任せられる。半蔵大いに奮闘し敵将山下八郎三郎と槍を合わせその首級をあげてその間に味方の士を数十人救って無事退却させた。家康大いに称揚し以降「槍の半蔵」の異名で知られることとなる。この後三千石を武蔵比企にて賜り更に数々の武功により凡そ一万四千石を分量されるが、20才にて夭折する。弟大学が兄の所領「武蔵比企」を継ぎ丹後守吉網となる。兄想いの吉網は神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠し一寺を建立しその菩提を弔った。その後下谷池之端の現在地に移ったものである。
吉綱は四大将軍家綱の信任を受け御小姓組番頭と進み大坂定番となりまして一万石の加領を受け和泉国伯太藩一万三千五百余石の大名になり明治まで続く』
山門にある掲示板には、いろいろなイベントの案内が掲示されています。一般の方向けに写経や茶道教室、映画鑑賞会等、様々な活動を行っているようです。以前は、この山門前に灰皿が置いており、通勤者、散歩している人、いろんな人が一休みしていました。お寺の前で喫煙てのも、なんて思っていましたが、やはり、時勢ですね、灰皿はなくなりました。
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