2021年1月23日土曜日

法要山 啓運寺|江戸時代彫られた木造毘沙門天像のある谷中のお寺

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 谷中の御殿坂から、谷中銀座に向かう途中の北に向かう路地、諏訪台通りにあるお寺です。
 元和元年(1644)に創建されたお寺なのですが、創建は下谷でされましたので、もともとは、現在の上野にありました。


 江戸切絵図「東都下谷絵図」を見てみると、上野の山下に慶雲寺と記載があります。これが、啓運寺です。今でいうと上野駅のドまん前、上野の丸井の東隣あたりになります。


 江戸名所図会の「山下」の図には、啓運寺として描かれています。色を付けたつもりですが、なぜかモノクロになってしまったのですが、中央左はじの矢印の部分が、啓運寺です。前の大通りは、今でいう昭和通りでしょうか。周囲には、お店が描かれており、当時の上野山下の賑わいぶりが分かります。
 江戸の大繁華街だった上野は、幕末の官軍と幕府軍の戦争「上野戦争」の舞台となり、啓運寺は、その際、焼失してしまいました。
 その後、明治18年(1885)、上野から、現在の地に移転しました。


 境内に入るとまず、毘沙門堂があります。境内の案内板によると、この毘沙門堂には、木造の毘沙門天蔵が安置されており、この毘沙門天像は、寛政9年(1797)に彫られたものだそうです。上野戦争で焼失を免れて残ったのでしょう。


 説明板によると、写真を撮り忘れたのですが、延宝8年(1680)の庚申塔があるそうです。


 また、境内の一角には、石碑群があります。この中に、根津勢吉という人の墓があります。写真の左端です。あまり聞かない人ですが、幕末に咸臨丸で、福沢諭吉と渡米した人のようです。その後、戊辰戦争では、榎本武揚について幕府側で戦ったそうですが、明治維新後には、海軍大尉になった人だそうです。谷中にお墓があるくらいですから、この辺りの人なのでしょうか。名字が根津ということは、台東区の根津と関係があるのでしょうか。分かりません。


運寺の地図、アクセス

東京都荒川区西日暮里3−2−14

     


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