JR日暮里駅から谷中銀座まで行く途中にある坂道です。道路を挟んで、荒川区と台東区に別れますが、それぞれの歩道に坂名板があり、それぞれ、坂の由緒が書かれています。
まず、台東区側の坂名板には、文政12年(1828年)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後(現在の谷中霊園。谷中霊園の敷地はもともと天王寺の敷地ですが、1833年までは、天王寺は感応寺という寺号でした。)と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には、長さ15間(約27.3m)幅(約3.6m)とあるが、現在の坂の長さは50m以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居場所)がこの先にあったからと言われるが、根拠は定かではない。と書かれています。
つぎに、荒川区側の坂名板には、西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保9年(1838)刊の「妙めを奇談」は、寛永(1624〜44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったということにより付いたというが、坂名の由来は定かではない。と書かれています。
つぎに、荒川区側の坂名板には、西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保9年(1838)刊の「妙めを奇談」は、寛永(1624〜44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったということにより付いたというが、坂名の由来は定かではない。と書かれています。
両方読んでみますと、台東区側と荒川区側の由来の説明は少々違うようです。
台東区側の由来に、「谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。」とありますが、確かに、現在では日暮里駅と線路があるために、急坂は線路の上に掛かる橋で覆い隠されているので、この地形のダイナミズムは隠されていますが、線路のある場所から現在の御殿坂のある場所は断がい絶壁で隔絶されています。太古の昔は、この断がい絶壁の下は海であり、この断がい絶壁は海による侵食でできたものです。その地形を体感することはできませんが、もしかするとこの坂名板の通り、御殿坂は、その昔は急坂だったのかもしれません。
坂名板の通り、その昔、谷中墓地の場所全域が天王寺であり、その向かいは、林だったようです。今でこそ林はありませんが、両側の歩道には木が生い茂っていて、木陰になっていて苔やキノコが生えていたり、緑の気持ちの良い坂道です。
御殿坂を登ると、本行寺(月見寺)など、室町時代から江戸時代にかけて創建された由緒ある緑に囲まれたお寺があります。地形のダイナミズムを感じていたかと思えば、今度は、中世の寺町に触れることになります。江戸の頃までは、このダイナミックな地形で緑の多い中に、このようなお寺が点在しており、とても風光明媚なところだったのであります。
緑は少なくなっていますが、今でも、お寺の境内には緑が残っており、江戸の頃までの風景を切り取って、現在の景観にコラージュのように当てはめているかのようです。
今でこそ、日暮里駅から、谷中銀座までのとおり筋には、その他、レストラン、食堂など、数多くあり賑わっていますが、江戸切絵図を見ますと、江戸時代のこの通りには、お寺の記載しかありません。現在の谷中霊園全域を境内としていた大きな天王寺がありました。その当時は大きなお寺があれば人が集まり賑わっていたはずです。ですが、天王寺の山門は、江戸の中心地の方向、上野の方向にありましたので、江戸切絵図で見ますと、そちら側に町屋が存在しています。私の想像ですが、天王寺が縮小され、JR日暮里駅ができるまでは、この通りは今のような賑わいはなかったのではないかと考えます。
この佃煮屋さんの中野屋さんは、立派な看板建築で、サイドには金文字で「つくだ煮」の看板が掲げられており、歴史と下町風情を感じさせてくれます。
また、この通りには、石材店が多いことも気になります。お寺にはお墓がつきものですし、また、江戸時代は天王寺というお寺であった谷中霊園もあることから石材店があるのでしょうか?
また、この通りには、石材店が多いことも気になります。お寺にはお墓がつきものですし、また、江戸時代は天王寺というお寺であった谷中霊園もあることから石材店があるのでしょうか?
日暮里駅からの道は、今度は谷中の谷底に向けて下ります。この谷底には、近世では藍染川が流れていました。谷中銀座商店街の項でも書きましたが、藍染川は小川だったと思われますが、太古の昔は、石神井川が流れていたことが考えられ、その石神井川により侵食されたのかもしれません。また、太古の昔からの地形のダイナミズムを楽しむ番が巡ってきました。
日暮里駅からの道をまっすぐ降りると「夕やけだんだん」で、左にそれて降りると「七面坂」です。
日暮里駅からの道をまっすぐ降りると「夕やけだんだん」で、左にそれて降りると「七面坂」です。
御殿坂の地図、アクセス
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