2022年1月22日土曜日

高橋商店街(高橋のらくろーど・高橋夜店通り)|深川のかつての繁華街、そしてドヤ街であった街

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 この商店街、組合としては「高橋商店街振興会」であり、愛称が「高橋のらくろーど」、そしてGoogleマップには、「高橋夜店通り」と出てきまして、いくつもの名称がありややこしいです。現在は、のらくろーどで統一されているようですが、愛称も、以前は「ファミロード」、「深川たかばし」など幾多の変遷を繰り返しているようです。
 戦前は、この通りに日没から深夜12時まで夜店が並んだそうで、それが「高橋夜店通り」と言われる所以です。都内には、やはり過去に夜店で賑わった場所が多数あったのでしょう。千駄木にも「よみせ通り」があります。もちろん、こちらも、今、夜店は一切出ていません。
 「高橋のらくろーど」の南には小名木川が流れており、高橋という橋が掛かっています。高橋の近くに船着場があるので、水運が交通の大きな手段であった過去には、深川の繁華街として、この辺りは非常に栄えたそうです。その高橋の船着場には、千葉方面から野菜などを売りにくる人たちが、定期船に乗ってきて、ここから都内に行商に出掛けていたりしていたため、交通の中継点でもあったようです。そのような点でも高橋は非常に賑わったようです。高橋の夜店で行商の帰りに、買い物をして千葉に帰って行ったりしていたようです。
 過去に栄えた「高橋夜店通り」も今は昔、寂れゆく他の商店街と同じように、「高橋のらくろーど」も、やはり寄る年並みに勝てず、時代の流れから取り残されたような商店街となっております。


 看板がボロボロになっていますが、蒲焼き尾張屋。4代続く蒲焼店だそうですので、かなりの老舗だと思われます。


 チェーン店の進出も少なく、地元に根ざした商店ばかりです。シャッターを下ろしているお店は少ないので、時代の流れから取り残されつつも生きながらえているようです。



 「高橋のらくろーど」ですから、のらくろのオブジェがあちこちにあります。昭和初期の漫画、のらくろですが。人口の何%の人がのらくろを知っているのでしょうか。のらくろのオブジェを見にくる人が、どれほどいるのでしょうか・・。とは言え、かの手塚治虫も、のらくろを書きながら漫画を練習したというくらいですから、日本の漫画文化の始まりであることには間違いなく、日本の漫画史上の重要なキャラクターであることには間違いないんだと思われます。


 のらくろの作者、田河水泡が育ったのが、高橋辺りということで、高橋商店街の愛称が「高橋のらくろーど」となったんだと。のらくろは、日本の漫画史上、重要なキャラクターであることは間違いないと思いますが、何せ、そんなにかわいくないし、あまりにも古すぎて・・・。聖地巡礼に来る人はいないでしょうし、高橋商店街にある商店が、日用品など地元に根ざしすぎているので、遠方から買い物に来る人はいないでしょう。特にこれといって、下町グルメ的お店も、商店街の中にはありません。ただ、周囲には、下町グルメ的なお店はたくさんあります。下町散策の一環で、のらくろーどを歩いてみるのは良いかもしれません。


 アーケードの上をよくみると、実は看板建築が並んでいることがよく分かります。昭和レトロな商店建築が立ち並んでいるということですね。



 昭和25年(1950)創業のやよい鮨。江戸時代の江戸前寿司を再現したりと、いろいろチャレンジしている寿司屋のようです。
 この先、アーケードが途切れ途切れになり、そしてアーケードは無くなります。


 シャッターを下ろした看板建築も現れ始めます。これより先も、高橋夜店通りは続いているのですが、商店街としては、これより先は消滅してしまっているようです。


 定休日なのか、休業してしまっているのか。この辺りも過去には賑わっていたのでしょうか。とは言え、のらくろーど自体、もう賑わっていないですが・・・




 タオルや、ハンガーなどの日用雑貨を売るお店。今時、路面店で、このようなお店を開くことの方が難しそうな気がします。



 もう周りに商店も無くなってしまった辺りに中華料理・楽楽があります。このお店、創業は何と昭和5年(1930)。創業当時、この通りは、先にも書きました通り、かなりの繁華街でしたでしょうし、日が暮れてからは夜店が多く出て、大変賑わったのでしょう。


 楽楽で、小休止。町中華はちょっと飲むのにも最適。何かつまみを頼んだような気がしますが、忘れました。


営高橋アパート



 楽楽の向かいにある異様な建物。都営高橋アパート。全く丸みを排除したかのような直方体のこの建物は、経年劣化とともに美しさを増しているのではないでしょうか。


 年季の入り方が、あまりにも艶っぽく、カッコ良い。昭和の刑事ドラマなんかに出てきそうなアパートです。何かよくわからないパイプが、壁や上部に剥き出しに這っているのが、またカッコ良い。


 隣の建物との近接の仕方も、遠慮のかけらもない無骨さ。オシャレ度0%の潔さがカッコ良いです。


 これは、住宅なのか町工場なのか。こういう屋上の増設、下町でたまに見かけますが、これって、合法なのでしょうか。そして、四方をビルに囲まれているように見えるのですが、どこから入るのか。




 側面に整然と並ぶ窓、この無骨さが美しい。この都営高橋アパートは、昭和32年(1957)の建築だそうで、日本が高度成長の真っ只中に建てられたアパートなのです。そして、この頃のこの辺り、森下三丁目は、東京でも有数のドヤ街、細民街、貧民窟、スラム街だったのです。
 大正時代頃から高度成長期まで、ドヤ街というか、貧民窟であったこの辺り。この都営森下アパートに関して記述してあるサイトには、ドヤ街に集まる労働者を押し込むために建てられたと書いてあります。なので、森下のドヤ街のランドマークみたいに書かれています。そうなのかどうなのか分かりませんが。これだけの建物に押し込める人数は、限られていると思いますが。

橋ドヤ街の痕跡


 都営高橋アパートから路地を入って行くと、高橋ドヤ街のあった地域になります。簡易宿泊所から転身したと思しきビジネスホテルが多くあります。山谷もそうですが、ビジネス街でもないのにビジネスホテルが林立しているのはとても違和感があります。



 一部、簡易宿泊所であったかと思われるような建物が残っていますし、現役で寝泊まりしている人がいる建物もあります。現役の日雇い労働者はいないでしょうし、どのような方が住んでいるのでしょう。東京一のドヤ街であった山谷ですら、もう若い労働者はいないのではないでしょうか。過去に日雇い労働に従事し、日本の成長を下支えしていたであろう老人たちが住んでいるのでしょうか。山谷も老人しかいません。




 高度成長期頃までは、この辺りに日雇いの仕事を求める人たちが大勢いたなんて想像もできません。山谷ですら、そのような光景は今では見られないです。東京には、もうドヤ街も、貧民窟も、細民街も、スラム街も無くなってしまているのでしょう。過去には、このようなドヤ街で日雇いの仕事をする人たちが、日本の発展を下支えし、そして、そのような地域の独特な文化があったのでしょうが、そのような文化も消滅しつつあるのではないでしょうか。
 ある意味、東京の文化の多様性の一端が損なわれつつあるのだと思います。


 ドヤ街であったであろう周辺には、看板建築や、古い商店建築のような建物が多くあります。ドヤの周囲にお店があったのでしょうか。以前は、いろんな意味で賑やかだったようです。


 日雇い労働者もそうですが、町工場も多くあった地域ですから、労働者のための食堂や酒場が多くあったようです。大阪の西成のような感じなのでしょうから、以前は物騒な街でもあったのでしょう。今は、閑静な住宅街となっています。


 ですから、下町の労働者の文化というものは廃れつつあるのです。




 労働者文化が寂れゆく森下に残る労働者のための食堂、はやふね食堂。戦後から、ここにあるようです。定食スタイルではなく、おかずを自分で選ぶスタイル。ご飯、味噌汁までも選べるようになっているのは、やはり、酒飲みな労働者むけの食堂ゆえのスタイルなのではないでしょうか。こんな食堂や、酒場が、この辺りには多くあったのでしょう。

橋商店街(高橋のらくろーど)の地図、アクセス

東京都江東区高橋、森下3丁目、4丁目

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