2023年1月22日日曜日

霞関山 本覚院 太宗寺|新宿ゲイタウン脇の巨大地蔵菩薩、エンマ像、塩かけ地蔵・・・

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 世界最大ともいわれる新宿二丁目のゲイタウン。その一部をなす不動通りの東のはずれに太宗寺がある。
 慶長元年(1596)頃、太宗という僧侶によって開かれた草庵から始まったと伝わっています。江戸時代、この辺りは甲州街道の内藤新宿という宿場町でしたが、その宿場町に構える大きな寺院であったのです。


 現在、太宗寺には不動通りから入りますが、不動通りができる前までは、新宿通り、旧甲州街道から入れるようになっていたようです。江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷絵図」に、仲町を抜けて内藤新宿に出る通路が書かれています。この道は不動通りから新宿通りに出る路地として現在も残っている通りだと思います。
 また、現在、太宗寺の北側には新宿区立新宿公園がありますが、ここも太宗寺の境内であったそうです。その新宿公園になってしまったあたりからは、水が湧いており、かつて新宿に流れていた蟹川という川に流れる池があったそうです。広大な境内に池もある自然豊かな寺院だったのかなと思われます。



 歴史ある太宗寺、宿場町という繁華街に構えた太宗寺には、多数の文化財が残されています。


 まず境内に入って圧巻なのが巨大な地蔵菩薩。これは江戸市中6ヶ所にある、いわゆる江戸六地蔵の一つ。江戸六地蔵とは、江戸中期、深川の地蔵坊正元が発願し、品川、浅草、巣鴨、白河、富岡、そしてここ新宿に造立された地蔵菩薩像のこと。
 ここ太宗寺の地蔵像は、正徳2年(1712)に六地蔵の三番目に造立されました。この大きさでも、六地蔵の中では一番小ぶり。


 江戸切絵図に太宗寺のところに「エンマ堂」と書いてありますが、太宗寺は江戸の頃より「内藤新宿のお閻魔さん」として信仰されていました。文化11年(1814)に安置されたと伝わる閻魔像は、火災などでたびたび補修されながらも、頭部は制作当初のまま閻魔堂に安置されています。
 かつて藪入り(商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)、1月と7月の16日には閻魔大王の縁日が出て賑わったそうです。現在は、7月15日、16日に開扉されています。
 現在の閻魔堂は、鉄筋コンクリート製ではありますが、戦前に建てられたお堂。



 また、閻魔堂内左手には奪衣婆像が安置されています。閻魔大王はよく聞きますが、奪衣婆なんてあまり耳にすることがありません。奪衣婆とは、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る死者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計るんだそうです。閻魔大王の奥さんともいわれていますね。
 衣服を剥ぐことから、内藤新宿にあった妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と信仰されていたんだそうです。奪衣婆像は明治3年(1870)に作られたそうです。


 いろいろな信仰があるんですね。塩かけ地蔵。お地蔵さんが塩まみれになっています。この塩を持って帰って治したいところにぬって治ったり、願をかけて願いが叶ったら、持って帰った塩の倍を返すんだそうです。塩はお浄めの意味もあるのでこのような信仰が始まったのでしょうか。塩まみれになったお地蔵さんは、初めて見ました。


 塩かけ地蔵の隣には、木造の立派な不動堂があります。不動堂も閻魔堂と同じく、戦前に建てられたものです。


 不動堂には、三日月不動像と布袋尊像が安置されています。
 三日月不動像は、江戸時代の作だそうですが詳細は不詳。寺伝によると、もともと、この像は高尾山薬王院に奉納する予定だったんだそうです。甲州街道を運搬中に太宗寺で休んでいると、この不動像がびくとも動かなくなってしまった。そのため、そのまま太宗寺に安置したと伝わっています。


 もう一つ、布袋尊像は、こちらは昭和初期に作られた比較的新しい像です。昭和初期に、新宿山手七福神が創設された時に安置された像なのです。


 本堂は、戦災で焼失してしまったため、戦後に再建された鉄筋コンクリートの現代的な、なにか宇宙的な神秘的な感じのする建物です。
 このあたりには、江戸時代、高遠藩主であった内藤家の屋敷があり、それゆえ、この宿場町は内藤新宿と呼ばれたのですが、太宗寺は、その内藤家の墓所でありました。昭和27年(1952)に区画整理され内藤家の墓所は縮小されていますが、それまでは約300坪、57基の墓塔がある広い墓所だったということです。

宗寺の地図、アクセス

東京都新宿区新宿2−9−2

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