天龍寺
新宿4丁目の明治通を歩いていると立派な山門に出くわす。戦時中の昭和18年(1943)に完成した山門。この山門は戦禍をくぐり抜けたということだ。
この山門の巴瓦には葵の御紋が施されている。もともと天龍寺は法泉寺といって遠江国にあったそうで、徳川家康の側室、於愛の方の父の菩提寺であった。於愛の方は二代将軍、秀忠の生母。
遠江国にあった法泉寺を前身として、新たに江戸に天龍寺として創建されることになったのだが、当初は牛込に創建された。現在、牛込郵便局とか牛込警察署があるあたりだと思われる。牛込にあった頃の場所に関しては、てくてく牛込神楽坂というサイトに詳しく書かれているので参照されてい。これとGoogleマップを見比べると、道割がそのまま残っているようで、かつての天龍寺のあった場所がくっきりと浮かび上がってくる。
江戸城の表鬼門鎮護は上野にある寛永寺だが、裏鬼門の鎮護の意味があったそうだ。天龍寺という寺号は、法泉寺近くに流れている天竜川からとられた。
天和3年(1683)、牛込で火事があり、天龍寺も類焼したため現在の地に移された。
江戸切絵図、「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」には現在と同じ場所に天龍寺が書かれている。天龍寺の北には、宿場町、内藤新宿がある。当時の宿場町といえば大繁華街であり、そういった繁華街近くに移ってきたわけだ。
境内には、時の鐘と呼ばれる梵鐘がある。現在の梵鐘は三代目で明和4年(1767)に鋳造されたもの。初代は元禄13年(1700)に、牧野備後守貞長によって寄進された。
また、天龍寺には梵鐘と同じく牧野備後守貞長が寄進した「やぐら時計」が残っている。鐘をつくためには正確な時刻を知ることが必要ということだろうか。
内藤新宿近くで時を知らせる天龍寺の鐘は、繁華街の内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として「追出しの鐘」と呼ばれたそう。内藤新宿は、今でいう新宿2丁目、3丁目あたり。現在の大繁華街、歌舞伎町からは少し離れているが、3丁目あたりは現在でも繁華街である。新宿2丁目は、ゲイタウンとして発展したわけだが。江戸時代は、飯盛女(=娼婦)がいる飯盛旅籠などがあり、風俗的な意味でも遊び人がたくさん訪れる繁華街だったのだ。
天龍寺裏の旧ドヤ街
天龍寺を散策したら、天龍寺の裏を歩いてみるのも面白い。
天龍寺の裏には、大都会、新宿とは思えないような小さなホテルや旅館が立ち並んでいる。
実は、この辺り、山谷と並ぶ都内でも有数のドヤ街だったのだ。そして山谷もそうだが、かつてのドヤ街はその役割を終えようとしていて、ここ天龍寺裏のドヤもとっくのとうにその役割を終えているようで、営業をしていない旅館もある。
この辺りがどうしてドヤ街となったのか。明治に刊行された日本の下層社会(横山源之助)によると、「四谷天竜寺門前に部落を作る大道講釈・かっぽれ・ちょぼくれ・かどつけの輩もまた同じく芸人なり。」と記載されている。先に掲げた「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」に天龍寺の門前には門前町があるが、ここに大衆芸人が住んでいたのだろうか。かつての大衆芸人は貧しい人が多く、貧民街が形成されていたのだろう。
天龍寺門前は、そのような貧民向けに木賃宿がある場所だったのかもしれない。昭和5年(1930)に出版された林芙美子の「放浪記」に、新宿旭町(当時の地名)や、木賃宿の様子が赤裸々に描かれている。大正時代のこと。
「新宿の旭町の木賃宿へ泊まった。石崖の下の雪解けで、道が餡このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。」
そんな木賃宿には、いつまでも騒々しく人が出入りし、挙句の果てには、林芙美子が泊まった部屋に頭を銀杏返しに結った女が転がり込んできて、その女を追って警察官が入ってきたり。銀杏返しの女というのはおそらく娼婦のことなんだろう。平成の初め頃までは立ちんぼの娼婦、街娼がこの辺りにはまだいたようで、日雇い労働者もそうだが、街娼もこの街には長らくいたことになる。
新宿旭町に泊まり始めた翌朝、林芙美子は、青梅街道の入り口にある飯屋に入る。そこにドロドロに汚れた労働者が「十銭で何か食わしてくれ、十銭玉一つしかないんだ」と入ってきたと書かれている。
青梅街道の入り口というので、多分、天龍寺のすぐ北にある新宿三丁目交差点あたりだろうか。今では伊勢丹が睨みを効かすおしゃれタウン。そんなところに、ドロドロに汚れた労働者が入ってくるような飯屋があったのか。今では考えられない。
いや、でもよく思い出してみると私が学生の頃、平成の初め頃は、新宿といえばダンボールハウスなどホームレスの人もたくさんいたし、確かに新宿は怖い街でもあった。それが今では一掃されて、浄化されている。あの人たちはどこへ行ったのだろう。
山谷のかつてのドヤ街の方もドヤとしての役割は終えつつあるかもしれないが、ドヤ街の食文化がまだ残っている。いたるところに安酒場が残っている。かつての日雇い労働者は、身を粉にして労働し、そのお金で酒を飲んだ。そんな痕跡があちこちに残っているのだが、ここにはそんな食文化は残っていない。ただホテルと旅館が残っているだけの本当に寂れた通りになってしまっている。
実は、新宿のドヤ街は、天龍寺の裏だけではなく、天龍寺門前にもあったのだが、明治通りの開通とともに、ドヤ街が分断されてしまっている。そして、西側、つまり新宿駅側は再開発され、ドヤの痕跡もなくなっているのである。日雇い労働者は飯も食えば、酒も飲む。そんな食文化も新宿にもあったはずなんだろうが、もしかしたら、その明治通りの西側には酒場があったりしたのかもしれない。また、放浪記の青梅街道の入り口の飯屋のように、この近辺に、そのような食文化があったのかもしれない。
いずれにしても開発されまくった新宿には、そのような食文化が残ることは難しいのだろう。
そういう食文化が残ってないにせよ、大都会、新宿駅のすぐ近くにこんな簡易宿泊所の名残のような旅館が並んでいるのは、異様な光景でもある。そして、営業していない旅館も少なからずあるので、この光景、新宿のドヤの歴史を見れるのはそう長くないかもしれない。
これは看板建築だろう。何かの店舗だったのか、規模からして床屋だったとか。
スペイン瓦などでオシャレさを押し出しているホテル。山谷は海外の旅行者、バックパッカーが利用しているというが、なんか新宿はそんな話聞かないし、ある意味、うらびれ感がハンパない。
これらも、簡易宿泊所、というよりはアパートだったとか?
天龍寺の地図、アクセス
東京都新宿区新宿4−3−19
天龍寺 情報交換
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