2019年11月24日日曜日

名もなき旧東海道|旧東海道⑤鈴ヶ森刑場まで

ホーム東京の通り>名もなき旧東海道

 品川の旧東海道。北は、八ツ山橋あたりから残っているわけですが、そこからの旧東海道、北品川本通り商店街となっております。それから南下していくと、商店街の名前は変われど、鮫洲商店街まで、品川の旧東海道は、ずっと商店街が形成されています。
 ところが、鮫洲商店街以南は、一旦、商店街では無く、ただの通りとなります。


 旧東海道の品川宿は、鮫洲商店街よりもさらに北の青物横丁商店街までですから、ここまで来ると、江戸からかなり離れ、品川宿からも離れた郊外だったのでしょう。また、明治以降は、北品川あたりは、花街としての品川宿の機能が残り繁栄しましたし、南品川は、目黒川流域の工場地帯の労働者の商店街として栄えました。ですが、ここまで南下すると、商店街も形成されなかったのですね。


  ほぼ、無機質な住宅街ですが、少し残る、古民家を堪能しながら、歩きます。
 少し歩きますと、何やら雰囲気のある蕎麦屋さんがあります。
 

 この蕎麦屋の吉田家さんは、安政3年創業の老舗だそうです。もともとは鮫洲にあったそうです。幕末から明治期にかけては、坂本龍馬や、勝海舟、山岡鉄舟など、明治維新に活躍した人々も利用していたようです。やはり、旧東海道は、明治維新とはゆかりが深いですね。
 この辺りからは、旧東海道は、立会川龍馬通り繁栄会という商店会に属するようです。この辺りは、あまり商店はありませんが、少し歩き、立会川駅付近まで来ると、旧東海道から、立会川駅に向かう通りは賑やかな商店街となております。



 ここに来て、坂本龍馬推しが激しくなるのですが、この辺りに、土佐藩の鮫洲抱屋敷があったそうで、若き坂本龍馬が、ここで過ごしていたそうです。立会川駅から旧東海道を挟んで東には、浜川砲台跡がありますが、坂本龍馬は、この浜川砲台の警護に当たっていたのです。ですので、先の吉田家さんにも、坂本龍馬が訪れていたわけですね。
 立会川駅付近をさらに南下すると、立会川(今は、勝島運河)を渡ることになります。


 この橋の名前は、浜川橋、別名を涙橋と言います。涙橋と言えば、荒川区にも字は違いますが、泪橋があります。荒川区の方の泪橋の方が、あしたのジョーゆかりの地ということもあり、名が知れていると思いますが。謂れは同じで、荒川区の方の泪橋を渡った先には、小塚原刑場があり、こちらの涙橋を渡った先には、鈴ヶ森刑場がありました。
 橋のたもとには、由来が書かれています。この橋で、罪人とその家族が別れたのですね。罪人とは言え、想像すると悲しくなりますね。




 泪橋を渡ると、立会川のほとりに、天祖・諏訪神社があります。1100年代、平安末期の創建といわれる、古い神社です。


 その後も、通りは、より生活道路っぽくなり南下していきます。 



  途中、この辺りでは珍しく、二軒、飲食店が並んでいました。串焼き屋さんと、和食屋さんです。



 それから、少し歩くと、こんな銅板建築物件が!しかも、一階も二階も銅板で覆われています!この辺りは、民家と、マンションしかありません。銅板建築ですから、以前は、商店か、会社か何かだったのでしょう。気になります。


そして、品川の旧東海道を寂しく締めくくるのは、鈴ヶ森刑場跡です。




 首洗いの井に、火炙台、磔台・・・
 う、う、おどろおどろしい・・・本物です・・・


 罪人の人たちの刑場ですから、致し方ないとはいえ、想像を絶します。
 人形浄瑠璃や、歌舞伎の演目にもなっている丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白子屋お駒なども処刑された場所であります。




 刑場に隣接する大経寺から、見学者に、見学するのはいいけど、冥福を祈って行ってくださいと書かれています。
 史跡ですから、歴史見学として訪れる人は多いでしょうが、確かに、ここで多くの人が亡くなっているわけですから。罪人とは言え。

名もなき旧東海道の地図、アクセス

東海道その他の記事









0 件のコメント:

コメントを投稿

こちらからコメント、情報をお願いします。