2021年5月9日日曜日

神明山 天祖神社|大田区大森駅前のガチャガチャした高台にある神社

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 JR大森駅の西口。大森駅というとてもガチャガチャした駅前の緑の高台が、天祖神社です。境内までは、かなり急な石段を登っていくことになります。



 石段の中腹には、正一位伏見稲荷大明神があります。江戸末期の創建だそうですが、昭和45年頃の台風で、祠は倒壊してしまったそうで、その後、新しく建てられたようです。
 鳥居の脇には、「鎌倉のよより明るしのちの月」という句碑があります。大野榮山という人の書らしいですが、誰か分かりません。慶応2年(1866)、幕末の建立だそうです。



 石段の中途のレトロな外灯。形からして戦前のものでしょうか。



 石段を登りきると、眼下には池上通が見えます。池上通りから登ってきたのですから当たり前ですが。


 狛犬は、大正4年9月と刻まれていますので、大正時代のものです。


 境内の案内板によりますと、江戸時代の享保年間に伊勢神宮参詣のための伊勢講を作り、伊勢皇大神宮から分霊を受けて祭祀したのが始まりのようです。当時は神明社と呼ばれていたそうです。
 ですが、社殿前にある案内板には「近くに大森貝塚や縄文時代の住居遺跡もあり、古くから人々が住んでいました。古代人は神は天上に住み、時々高い所に降臨すると信じ社を高台に建てて祭礼をしていたと考えられます。」と書かれています。もしかすると、江戸時代に入ってから大きくなったのかもしれませんが、それ以前にも何かお祀りするような神聖な場所だったのかもしれません。何かと神社やお寺は、そのような場所に建てられていると思います。


 また、社殿には、大きな松の切り株が置かれています。この松に関して境内の案内板に書いてある内容をそのまま書きます。「境内社殿脇に大きな松があったが徐々に枯れ大正六年(1917)十月の暴風雨で倒れたが、この松は平安末期、寛治五年(1091)鎮守府将軍八幡太郎義家(源頼朝の高祖父)が後三年の役に奥州征伐に赴くに当たり駒を止め、鞍を下ろし、鎧を掛けて土地の風景を眺め暫し汗を拭い取ったとのことで『八幡太郎鎧掛けの松』と古来伝承され、その孫松の大きな切り株(直径161cm)は当社拝殿の中に大切に保管されている。」
 分かりにくい文章なのですが、八幡太郎鎧掛けの松は、大正6年の暴風雨で倒れたということ、そして、その孫松の切り株が社殿の中に保管されているということですから、八幡太郎鎧掛けの松は、もう全く残っておらず、その孫松の切り株だけが残っているということなのでしょう。


 八幡太郎義家(源義家)は、奥州征伐の際には、当たり前ですが、現在の東京である武蔵国を通っていますから、都内には、源義家の伝承が少なからず残っています。源義家の鎧に関しては、上中里の平塚神社には、源頼家の鎧を埋めたとされる鎧塚があります。鎧に関して、複数の伝承を持っているんですね、源義家は。
 さて、この鎧掛けの松ですが、天祖神社の案内板には、先ほども書きました通り、社殿の脇にあったということですが、江戸時代の名所図会などを見ると、社殿脇とは思えない場所に描かれています。


 上は、歌川広重の描いた「八景坂鎧掛松」です。松の大木の脇には、神社が描かれていませんし、松の左手に道がありますが、これは、現在の池上通りだと考えられます。


 次いで、二代目歌川広重の描いた「八景坂夕景」。こちらも、松の大木の脇に神社などはありません。


 歌川広重「品川大井八景坂鎧掛松」。松の大木の脇には、やはり茶屋しかありません。


 江戸名所図会「八景坂鎧掛松」。やはり、松の大木の周りには、茶屋しかありません。いずれも、大木の左側(西側)に道がありますが、やはり、現在の池上通りでしょう。そうしますと、どう考えても天祖神社(当時の神明社)は、池上通りの左側(西側)にあるはずですから、鎧掛松は、天祖神社から道(池上通り)を挟んで反対側(東側)にあったと考えるのが自然だと思います。そうすると、義家の鎧掛けの松は、天祖神社社殿脇にあったとは到底考えにくいことになります。
 どうやら、鎧掛け松があった場所は、鉄道線路の工事により削られてしまったと考えられるようです。現在の大森駅の北側にあったと考えられるようです。
 これらの浮世絵を見ていると、この断崖絶壁からは、大森の田園地帯の向こう側に東京湾が見渡せる絶景の地であったことは間違いありません。ですから、明治以降、この地に、文士達が集まり、馬込文士村と言われたのでしょう。

明山 天祖神社の地図、アクセス

東京都大田区山王2−8−2
 

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