2022年9月10日土曜日

江東天祖神社|飛鳥時代からある亀戸にある神社

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 かつて亀戸天神社の裏に形成されていた花街、そして赤線地帯、カフェー街。その北限であろう通り、この通りはかなり古い商店建築や看板建築、そば屋などが残っていて、かつては買い物の奥様、あるいはもしかしたらカフェーなどに遊びにきた殿方が食事したりしたような賑やかな通りだったかもしれない。(と勝手に想像しているだけですが)
 花街もカフェーもとうの昔になくなったし、商店の価値もとうの昔になくなっているのだろうし、例に漏れず、寂れた淋しい通りとなっているのですが、その通りから江東天祖神社への参道が北に出ている。
 この参道がまた、うすら寂れていて物悲しい。看板建築などがあるのを見ると、神社前の参道としてお店があったりして少し賑やかな通りだったのかもしれない。


 看板建築と、もうあまりにも昭和レトロで100点満点な床屋さん。南には、花街や赤線、カフェーがあったので、髪を整えて遊びに行く人も多かったのではとする向きもあるが、そんなことは分かりません。


 ちょっと写真の撮り方が悪いというか、後で気づいたのですが、右の一つ奥の建物の戸袋がとても昭和でオシャレなので、商店か何かだったのかもしれません。


 でっかいダクトの建物はクリーニング店。こんな下町で自社工場を持っているクリーニング店。なんだかスゴい!クリーニング店なんて今はチェーン店が多いですが、昔はこうやって自前で工場というか作業場を持ってやっていたんでしょうね、きっと。そんなのが残っているのが本当にスゴいと思う。


 そんな昭和レトロも荒廃したような参道の先に天祖神社があります。天祖神社は都内にもたくさんありますが、御祭神は天照皇大神。
 驚くなかれ、この天祖神社の創建は、推古天皇の御代といいますから、592年から628年、古墳時代から飛鳥時代になった頃のことです。1400年前ということになります。いやはや恐れ入ります。御神体は厩戸皇子(聖徳太子)が作られたご神像だそうで、歴史と、そしてその時代にこの辺りまで聖徳太子の作られたご神像が納められていたんだなと考えると感慨深いものがあります。



 社殿は、幾度となく災害などに遭い崩壊していて、関東大震災においても崩壊しております。


 現在の社殿は、関東大震災後の昭和4年(1929)に造立されたものです。鉄筋コンクリートで建造された社殿は、日本で初めてだったそうです。


 境内社の太郎稲荷神社は、筑後梁川の立花家の下屋敷にあった守護神を江戸末期に天祖神社に移したもの。天祖神社のサイトによると、樋口一葉の「たけくらべ」に登場するそうな。確かに「太郎様への朝参りは、母さんが代理してやれば御免こふむれとありしに、」とあります。遊女の姉の商売繁盛の願掛けをしていた妹の美登利の体調が悪いから、代わりに母親が行こうかという会話。ただ、文庫本の注釈には、太郎様は、「太郎稲荷神社。下谷の光月町にあり・・・」と書かれています。
 たけくらべの題材は、吉原ですが、吉原からほど近い入谷にも太郎稲荷神社があり、ここも立花屋敷から移されたかなんからしい。このあたりは以前は光月町であったので、たけくらべに登場する太郎稲荷神社は、天祖神社の境内にある太郎稲荷ではないのかもしれません。





 やはり、境内からはスカイツリーが見えます。


 天祖神社から出て東に歩くと、この辺りはどこもそうですが、細くうねった路地に昭和の下町然とした建物がたくさん残っていますので、天祖神社とは関係ありませんが、載せておきます。このような光景はいずれなくなってしまうのでしょう。







 こんな路地裏に立派な看板建築がありました。看板をよく見ると真ん中は「もつやき」って書いてあるのかな?右端は「ゆたか」?もつ焼き屋だったのかな?こんな路地裏の住宅街に、そこそこ立派な看板建築があるのも違和感ですが、もつ焼き屋があるのにも驚きでした。なんなんだこの通りは。




東天祖神社の地図、アクセス

東京都江東区亀戸3−38−35

     


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