2022年10月2日日曜日

柳橋大川端通り(柳橋花街の痕跡①)|1999年まで400年続いた柳橋花街のメインストリート

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 神田川が隅田川に注ぐところに架かる橋、柳橋。その柳橋からそのまま北への通りが柳橋大川端通り。柳橋がかけられたのが元禄11年(1698)。


 柳橋から北に向かって少し東に折れて、また北に、柳原大川端通りは江戸の頃の通りと同じです。


 柳橋のたもとにはいきなり大きなビルがありますが、これ、看板がまだかかっていますが亀清楼という料亭があった建物。昭和53年(1978)にこのビルになり、その際にはただの割烹料理店になったようですが、それまでは、芸者さんの呼べる料亭だったのです。
 隅田川に流れる神田川沿いには、今でも屋形船の船宿がたくさんありますが、江戸の頃から船宿がたくさんありました。それだけでなく、神田川と隅田川が合流する交通の要所でもあり、風光明媚でもありましたので、待合茶屋、料亭なども立ち並び、芸妓が行き交う情緒あふれる花街だったのです。
 柳橋の花街としての古い記録は文政年間(1804−1817)で、14名程度の芸妓がいたようです。そもそも小ぢんまりとした花街だったようです。それが、天保13年(1842)、倹約をもとに物価抑制、財政復興を目指した天保の改革の副作用みたいな感じで、大きな花街として成長することになったんです。
 天保の改革の時に、花街と岡場所が混在する一大歓楽街であった深川のその機能を取り潰されました。深川にいた芸妓たちの一部が柳橋に移ってきたのです。先に述べたように、交通の要所であり、そして風光明媚な場所であった柳橋は、深川から移ってきた辰巳芸者たちによって急速に花街として発展したのです。安政6年(1859)には、芸妓が140、150名に急増したのです。
 深川には花街と岡場所があったことから、遊郭のあった吉原と比較されていたようです。もちろん吉原は江戸の巨大遊郭でありますから芸妓よりも娼妓の方が格が上でしたが、それに対して花街と岡場所混在の深川では、体を売る娼妓より芸事を生業とする芸妓の方が格が上だと辰巳芸者はプライドを持っていたようです。


 柳橋のたもと、亀清楼の向かいにある小松屋。明治14年(1881)創業。もともと船宿として創業し、そののち佃煮屋が評判となり佃煮屋になったんだそう。旦那衆が芸者さん達と料亭遊びをしたり、船で江戸前の刺身や天ぷらを食べたり、優雅で情緒ある時代だったんだろうな。今のこの無機質な景観が残念で仕方ない。


 神田川沿いには船宿のほか、古い名店もあります。昭和23年(1948)創業の天ぷら屋大黒家。まだまだこの辺りが花街として華やかだった頃の創業。


 嘉永3年(1850)創業の老舗和菓子梅花亭。天保の改革後、柳橋が花街として発展する頃の創業ということになります。




 先ほどの亀清楼の場所は、もともと料亭の万八楼がありました。上の江戸高名会亭尽「柳ばし夜景」に柳橋とその奥に万八楼が描かれています。今となっては、亀清楼もビルですし、隅田川沿岸もビルばかりですが、江戸の頃は、川端のこんなに景色の素晴らしいところだったんですね。
 プライド高い辰巳芸者たちが発展させた柳橋花街は、その後、政財界の大物たちが利用し、政治の裏舞台として大発展することになります。明治維新後は、初代総理大臣、伊藤博文も亀清楼を贔屓にしていたということです。昭和の頃には、黒塗りの車で政治家や財界の大物が夜な夜な集まっていたのです。


 柳橋大川端通り、たぶん柳橋花街のメインストリートだったのであろうと思われますが、今は無機質なビル街に成り果てています。


 この通りからは隅田川が眺められたのですから、江戸の街からほどない場所にあって、それは風情のある場所だったでしょう。川端には隅田川が眺められる料亭がずらっと並んでいたのです。そんな風情はもう微塵もありませんが。


 風情のない柳橋大川端通りですが、風情のあったかけらが少し残っています。


 元禄元年(1688)に柳橋に移された石塚稲荷神社。このお稲荷さんの玉垣には、柳橋花柳界はなやかりしころにあった料亭の家号がずらっと並んでいます。正面の家号の並びは、隅田川を背にして、かつて料亭が並んでいた順に並んでいるそうです。


 この和風な建物。残された料亭建築なのかなと思いきや、昭和に芸者として身をおこして、その後、歌手としても活躍した市丸さんの住宅跡だそうです。
 芸者とは今でいうキャバクラのキャストみたいなものだと思っているのですが、ある意味そうかもしれませんが、今のキャバクラのようにただ横について、会話もお客にやらせるのとは違って、ちゃんと芸を身につけていたというのがスゴいのかなと思います。テレビ放映が始まってからはテレビにも出ていたといいますから。どうでもいいですが、芸者の源氏名って市丸だとか、なんだか男みたいな名前で、そんな名前でテレビに出てたのかと思うと違和感を感じてしまいます。
 それにしても、こんな都心に、そして、当時、花街のど真ん中だったところにこれだけの住宅を構えるなんてスゴい・・・
 今は、ルーサイトギャラリーというギャラリー兼、カフェとなっています。



 ルーサイトギャラリーの向かいには、藤間流日本舞踊稽古場があります。


 柳橋に最後まで残った料亭、いな垣があった場所は今マンションになっていて、わざとらしく柳が植わっています。いな垣があった頃に柳はなかったので。
 いな垣は平成11年(1999)に惜しくも廃業となり、同時に柳橋芸妓組合が解散となり、400年続いた柳橋の花柳界が終焉を迎えたのです。20名程度の芸妓が在籍していたようで、先に述べた文政年間の柳橋花街草創期の人数程度になっていたということになります。
 夜の文化の変化、政財界の文化の変化、コンプライアンスの変化などの要因も大きくありますが、隅田川の汚染も大きな要因の一つだったようです。ビルばかりになっているどころか、川が汚染してしまっていては風光明媚どころではありませんし。


 大川端通りは料亭が残っていないどころか飲食店もほぼ無い、ビル街となっています。そんな中でフランス料理店ルプティギャルソン、カフェプリティグッドがかろうじてあります。過去の賑わいは全くありません。



橋大川端通りの路地裏

 大川端のメインストリートには花街の痕跡はほぼ残っていませんでしたが、路地裏はどうでしょう。


 喫茶店なのか定食屋なのかよくわからない柳橋ときわ。戦後からやっている老舗。当時は賑やかだったんでしょうね。このお店の場所は、大川橋蔵という昭和のスターが生まれ育った場所らしい。wikipediaには、母親は柳橋芸者だということ。先ほど、昭和の芸妓の市丸さん住居跡を紹介しましたが、柳橋芸者さんはこの辺りに住んでいる人が多かったのですかね。


 この建物、料亭だったんじゃ無いでしょうか。



 路地裏の町中華。いつ頃からここでやっているのか。看板のデザイン的には1980年代か?


 とりあえず十八番で腹ごしらえ。ラーメンも餃子も完全無欠の普通の味。



 これも料亭跡的な佇まいの建物。


橋大川端通りの地図、アクセス

東京都台東区柳橋1丁目、2丁目

橋大川端通り 情報交換

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