2023年12月16日土曜日

長瀧山 本法寺|太平洋戦争中、戦時下にそぐわない落語を封印したお寺

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 東京メトロ田原町駅のある浅草通りの路地裏にある本法寺。
 境内にある由緒によると、天正19年(1591)、江戸城紅葉山に開山したのがはじまり。豊臣秀吉が天下を統一し、戦国の世も終わりに近づいていた頃ですね。
 その後、徳川家康が江戸築城のため、本法寺は紅葉山から外濠の八丁堀に移されたが、明暦2年(1657)の大火で焼失していまった。


 明暦の大火で焼失後、本法寺は浅草、東本願寺のあたりに移って現在にいたっている。江戸切絵図「東都浅草絵図」には、今と同じように東本願寺の前に本法寺が書かれている。


 訪れてみて目につくのが、びっしりと落語家の名が刻んである塀だ。他名前はないと言っていい。全部、落語家だ。


 そして山門の脇の塀には寄席や放送局なども刻まれている。芸能に関係のあるお寺なのか、何なんだろうと境内に入ってみると、「はなし塚」という立派な塚がある。


 この「はなし塚」というのは、昭和16年(1941)に建立された。この頃、太平洋戦争が始まり、時局に合わないということで芸能が自粛を強いられるようになった。そのため、落語界でも自主的に判断し、花柳界や、酒、妾、廓噺など53種類を自粛したようだ。酒や女に関する、風俗が乱れるような噺が特に自粛されてということなんだな。私は落語は分からないんだけど、「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」など江戸の名作とされた噺も禁演されたんだそうだ。
 これらの禁演となった落語の台本がこの塚に納められた。だから「はなし塚」があり、塀には落語家の名前が刻まれているんだ。
 戦後、昭和21年(1946)、禁演していた落語が復活できるということで禁演落語復活祭が開催され、納められていた台本が取り出され、代わりに戦時中の台本が納められたということだ。
 芸能、演芸の中心地だった浅草らしいエピソードだな。



 本法寺の境内には、二つのお稲荷さんがある。先に掲げた江戸切絵図「東都浅草絵図」にはも、本法寺の境内にイナリと記載がある。
 一つは、熊谷稲荷。このお稲荷さんは、江戸中期に熊谷安左衛門という人が勧請した。浅草寺境内にあったのが享保年間に、本法寺境内に移されたようだ。境内の案内や、本法寺のサイトから、熊谷稲荷は信者が多く参詣者も多かったと書かれており、また芸界や花柳界からの信仰も篤かったと書かれている。
 そんなようなことから本法寺に先の「はなし塚」が建立されたのだろうか。


 熊谷安左衛門の歌碑がある。読めない。


 もう一つのお稲荷さん、吉見稲荷。
 本法寺が建っている場所は、江戸幕府の茶碗用達町人の高原平兵衛という人に賜与された土地。その高原平兵衛がもともと屋敷神として吉見稲荷を祀っていたので、そのまま吉見稲荷が祀られている。
 江戸からの浅草の歴史が垣間見えるお寺です。

法寺の地図、アクセス

東京都台東区寿2−9−7

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