嘉永三年(1850)版の江戸切絵図には、この通りは「人形丁ト云」と記載があり、安政6年(1859)版の江戸切絵図には、「人形丁通り」と記載があります。江戸時代後期から人形町通りと呼ばれていたようです。
日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年版) |
江戸は、文化、風俗の街、明治から昭和にかけては花街の街として、江戸以降、ずっと繁華街、文化の街であり続けましたが、今は、歴史の名残が感じられる街であります。昭和までの繁華街としてのレトロな建築や、グルメが味わえる街、通りであります。
人形町駅から見えるのは、鳥料理の「玉ひで」さん。宝暦10年(1760)創業の老舗です。
将軍家の御前で鶴をさばく御鷹匠であった家が始めた軍鶏鍋屋が始まりです。当主の「鐡衛門」と妻の「たま」の名前から当初は「玉鐡」という屋号で始まったようです。軍鶏鍋屋の玉鐡というと、池波正太郎の「鬼平犯科帳」に出てくる軍鶏鍋屋「五鉄」を思い浮かべます。五鉄に関しては、隅田川の向こう岸の両国にある同じく軍鶏鍋屋の「ぼうず志ゃも」さんがモデルと言われていますので、玉ひでさんはモデルでは無いのでしょうか。でも店名は、大いに影響を与えていそうな気がします。
玉ひでさん、お昼のランチ時には、大変な行列ができます。
人形町通りからはそれますが、この玉ひでさんは江戸からの老舗ですが、この通り、明治からの老舗の洋食屋さんが2軒あります。
創業明治37年の「来福亭」さん。看板建築に堂々と「西洋料理 来福亭」と掲げていますが、玄関などの造りは和風というのが、とてもオシャレです。
店内も、洋食屋さんとはかけ離れた和風な設え。一階はテーブルが2卓。2階もあるようです。
お水ではなく、お茶が出るところが、また和風。このスタイルを明治から守っているのでしょうか。非常に親しみが湧きます。
こんな都会のど真ん中で、こんな狭いお店で採算が合うのでしょうか。心配になります。どうか末長く続いてほしいものです。
明治45年創業の小春軒。写真左の建物辺りは、谷崎潤一郎の出生地なのです。この小春軒は、山縣有朋のお抱え料理人の小島種三郎さんと女中頭の春さんが開いたお店だそうです。なので店名は小春軒。
花街華やかりし頃、明治、大正期の洋食と言えば、高級料理でしたから、流行に敏感な芸者さん達がこのような洋食屋に来ていたようです。
そして隣の谷崎潤一郎生誕の地の碑。
谷崎潤一郎出生の地に建つビルには「にんぎょう町 谷崎」というしゃぶしゃぶのお店が入っています。勿論、谷崎潤一郎とは無関係のようです。
そして、隣のビルには「幻の羊羹 細雪」という看板が!
しかし、この幻の羊羹は、もう作られていないようです。この細雪も、特に谷崎潤一郎とは無関係なようで、しゃぶしゃぶも羊羹も谷崎潤一郎にあやかったネーミングのようです。この辺りでは、やはり、玉ひでさんは、谷崎潤一郎の「ふるさと」に登場しますから、谷崎潤一郎に纏わると言えば、やはり玉ひでさんでしょうか。
ここから、また路地に入ると、昭和レトロな建築が多数あり、楽しめます。
まずは、北側から。
「人形町 薮そば」さん。入り口の緑がきれいです。
看板建築と、和風な建築が合体し、そして色合いがなんとも言えないグレーな建築。
上と下の写真の路地に入ると「芸者新道」に入ります。芳町花街の趣を残した、京都の路地のような風情のある細道です。
そして、南側の路地を入ると、昭和レトロ建築と、昭和レトロな飲み屋街があります。
お店の前に自転車が停めてある風景は、下町です。
人形町の地図、アクセス
人形町のその他の通り
甘酒横丁 江戸時代から、歌舞伎小屋、人形芝居小屋などがあり、明治に入ってからは寄席が多くあり、近代まで文化の中心地でありました。文化の中心としての役割は終え、現在は、その華やかりし頃から続く老舗のショッピング、グルメを楽しみ、往時を偲びます。 |
大門通り 江戸初期の遊郭「元吉原」の大門あった通り。その後も、花街「芳町」として栄えたところ。現在は、その痕跡を楽しむところ。 |
芸者新道 細い短い路地に、料亭建築の残る通り。芳町花街の面影を残す通りです。 |
明治座通り かつて、歌舞伎、人形浄瑠璃など、芸能で栄えた日本橋に唯一残る芸能の場、明治座のある通り。 |
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