日本橋芳町、芸者新道の歴史
神楽坂には芸者新路がありますが、日本橋人形町には、芸者新道があります。日本橋人形町(江戸では境町、葺屋町あたり)は、江戸時代からの繁華街、歓楽街でありました。元和3年(1617)には、江戸初の遊郭「吉原(葭原)」が開かれ、寛永元年(1624)頃、京都の猿若勘三郎が猿若座(のちの中村座)を開き、江戸歌舞伎が始まるなど、芸能、風俗の中心地として発展しました。その後も、歌舞伎の村山座、また、人形浄瑠璃、見世物小屋、曲芸などの小屋が続々と立ち並び、大いに賑わったようです。また、当時は、芝居と茶屋がセットになっており、芝居を見る前に茶屋に寄り、幕間には茶屋から酒や食事が運ばれ、芝居が終わった後は、また茶屋に寄っていたようです。このようなことから、茶屋も大いに賑わっていたようです。
境町、葺屋町(現在の人形町)の賑わい |
猿若座の興行の様子 |
ところ変わり、富岡八幡宮のある深川の話になりますが、大きな八幡様のある土地ですから、こちらも、大いに賑わっており、料理茶屋から花街が形成されていました。こちらの芸妓さんの中には、娼妓さんも多かったようで、花街と岡場所(非公認の遊里)とがごちゃ混ぜとなって発展しました。
文化はどの時代もそうですが、風俗と、芸能、飲食入り乱れて発展しますが、江戸の文化もこのように発展しました。しかしながら、天保の年間(1830ー1834)、天保の改革による財政再建に付随し、乱れた風俗の綱紀粛正が行われることになりました。
この天保の改革により、人形町界隈にあった歌舞伎は、当時は郊外であった浅草に移転させられました。また、深川の岡場所も取り潰しとなりました。取り潰しにあった深川の芸妓さん達は、人形町に移り住み、芳町花街を形成することになったのです。
この地域が「芳町」という町名になったのは、明治に入ってからです。この地域の花街が始まり、発展したのも、江戸後期から明治以降ということになります。
明治期には、芳町花街の芸妓であった川上貞奴が女優業をはじめ、日本で最初の女優と言われています。また、昭和期には、芸妓から歌手になった勝太郎など、芳町花街は名妓を輩出してきました。
昭和3年(1628)には、芸妓629名、置屋278軒、料亭150軒と発展しましたが、戦争を挟み、昭和24年(1949)には、芸妓278名、置屋177軒、料亭・待合121軒と縮小しました。その後、戦後の復興とともに、芳町花街も復興しましたが、昭和30年の芸妓307名、置屋187軒、料亭146軒をピークとして、令和元年の時点で、料亭1軒しかない状況になっており、ほぼ壊滅状態となっています。
文化はどの時代もそうですが、風俗と、芸能、飲食入り乱れて発展しますが、江戸の文化もこのように発展しました。しかしながら、天保の年間(1830ー1834)、天保の改革による財政再建に付随し、乱れた風俗の綱紀粛正が行われることになりました。
この天保の改革により、人形町界隈にあった歌舞伎は、当時は郊外であった浅草に移転させられました。また、深川の岡場所も取り潰しとなりました。取り潰しにあった深川の芸妓さん達は、人形町に移り住み、芳町花街を形成することになったのです。
この地域が「芳町」という町名になったのは、明治に入ってからです。この地域の花街が始まり、発展したのも、江戸後期から明治以降ということになります。
明治期には、芳町花街の芸妓であった川上貞奴が女優業をはじめ、日本で最初の女優と言われています。また、昭和期には、芸妓から歌手になった勝太郎など、芳町花街は名妓を輩出してきました。
昭和3年(1628)には、芸妓629名、置屋278軒、料亭150軒と発展しましたが、戦争を挟み、昭和24年(1949)には、芸妓278名、置屋177軒、料亭・待合121軒と縮小しました。その後、戦後の復興とともに、芳町花街も復興しましたが、昭和30年の芸妓307名、置屋187軒、料亭146軒をピークとして、令和元年の時点で、料亭1軒しかない状況になっており、ほぼ壊滅状態となっています。
現在の芸者新道
前置きが長くなったのですが、人形町には、当時の芳町花街の名残があちらこちらに残っています。同じ東京の花街、神楽坂には、あちらこちらに花街の名残を思わせる名の付いた通りがありますが、ここ人形町には、芸者新道という通りが花街の名残を思わせる名前の付いた通りであります。大観音寺 |
人形町通りを歩いていると、路地に大観音寺というお寺がる路地がありますが、これが、芸者新道です。
人形町には、古い建物、銅板建築、看板建築、料亭建築などなど、そこかしこに残っていますが、この芸者新道は短い通りですが、料亭建築が残っており、花街の名残を一番残している通りだと思われます。
京都の花街を思わせるような路地です。と言いますか、京都と言わず、東京にもこのような花街、街並み、路地が、以前は多数あったものと思われます。しかしながら、このような景観は、もう、なかなか東京では見れません。
花柳界華やかりし頃の料亭を偲ばせる建築です。
人形町には、古い建物、銅板建築、看板建築、料亭建築などなど、そこかしこに残っていますが、この芸者新道は短い通りですが、料亭建築が残っており、花街の名残を一番残している通りだと思われます。
京都の花街を思わせるような路地です。と言いますか、京都と言わず、東京にもこのような花街、街並み、路地が、以前は多数あったものと思われます。しかしながら、このような景観は、もう、なかなか東京では見れません。
花柳界華やかりし頃の料亭を偲ばせる建築です。
しかしながら、この芸者新道には、もう芸妓さんを呼べる料亭はありません。
この通りに、以前は、芸者さんが京都の花街のように歩いていたのです。
料亭建築だけでなく、昭和レトロな建築も目を引きます。
芸者新道から逸れますが、付近を散策しますと、さすがに料亭建築はありませんが、昭和レトロな看板建築や、銅板建築がそこかしこにあり、非常に楽しめます。
この通りに、以前は、芸者さんが京都の花街のように歩いていたのです。
このような中にも、大衆居酒屋のような酒場もあります。
料亭建築だけでなく、昭和レトロな建築も目を引きます。
芸者新道から逸れますが、付近を散策しますと、さすがに料亭建築はありませんが、昭和レトロな看板建築や、銅板建築がそこかしこにあり、非常に楽しめます。
芸者新道の地図、アクセス
人形町のその他の通り
甘酒横丁 江戸時代から、歌舞伎小屋、人形芝居小屋などがあり、明治に入ってからは寄席が多くあり、近代まで文化の中心地でありました。文化の中心としての役割は終え、現在は、その華やかりし頃から続く老舗のショッピング、グルメを楽しみ、往時を偲びます。 |
大門通り 江戸初期の遊郭「元吉原」の大門あった通り。その後も、花街「芳町」として栄えたところ。現在は、その痕跡を楽しむところ。 |
人形町通り 日本橋人形町観光のメインストリート。江戸創業、明治創業の老舗飲食店が多くあります。 |
明治座通り かつて、歌舞伎、人形浄瑠璃など、芸能で栄えた日本橋に唯一残る芸能の場、明治座のある通り。 |
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