創建は、室町時代の天文年間(1532−1555)といわれているようですが、詳しくは分かっていないようです。元は、上野にあったようですが、谷中三崎坂に移って来たそうです。
本堂は、何と、二つのお堂が合体したような造り!本堂の経王殿と、
薬王殿が連結されているお堂のようです。珍しい!昭和9年(1934)の建造のようです。
江戸時代は、
瘡守堂で
瘡守(笠森)稲荷を祀っていたようですが、維新後の神仏分離令により、
瘡守薬王菩薩として祀るようになったそうです。
瘡守(笠森)稲荷といいますと、江戸の三代美人の一人、笠森お仙という美人が、まさに谷中の笠森稲荷の前の水茶屋で働いていたとされています。
しかしながら、笠森お仙が働いていた笠森稲荷は、この大円寺にあった
瘡守(笠森)稲荷ではなく、感応寺(現在の天王寺)、のちに福泉院で祀っていた笠森稲荷であります。
であるのにも関わらず、大円寺には、笠森お仙を浮世絵に描いた鈴木春信の碑があったり、永井荷風の笠森阿仙之碑があります。
なぜ、違う
瘡守(笠森)稲荷に笠森お仙にちなむ石碑があるのかというと、福泉院は、維新寺の上野戦争で焼失してしまい、福泉院の笠森稲荷は、明治時代にはなくなっており、谷中の笠森稲荷といえば、大円寺の
瘡守(笠森)稲荷となっていたため、違うのを承知の上なのか、勘違いしていたのかは分かりませんが、大円寺に、このような石碑がたてられたのでした。
ちなみに、福泉院の跡地に功徳林寺が建立され、笠森お仙ゆかりの笠森稲荷は、功徳林寺の境内に再建されています。
江戸切絵図で見る大円寺
大円寺は、江戸切絵図には同じ場所に書かれています。 瘡守(笠森)稲荷は、カサモリイナリと書かれていますが、本堂とは別の位置に書かれています。先ほども書きましたが、今のお堂は昭和9年に建てられてものですから、江戸時代は、本堂とお稲荷さんは分かれていたようですね。
大円寺の地図、アクセス
東京都台東区谷中3−1−2
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