私は、日本史が好きで、それそれは日本に人が住み始めた頃からどうなっていたのかとか興味持ち始めると範囲が広くキリが無いので、ただ好きというだけに留まっていて、全く詳しくはありません。
この素盞雄神社も、私の日本史好きをくすぐるのです。
創建が平安時代になったばかりの延暦14年(795)。そして創建したのが、修験道の開祖、役小角の弟子、黒珍。素盞雄神社のサイトのご由緒によれば、黒珍の住居の東方小高い塚上に奇岩があったそうで、黒珍は、これを霊場として崇め、礼拝していたそうです。そうしたところ、その延暦14年に、奇岩が突如光を放ち二柱の神様が出てきたそうです。その二柱の神様は、素盞雄大神と飛鳥大神だったそうで、この二柱の神様を祀るために祠を建て、お祀りしたのです。
古代の地方史、宗教史となってくるわけです。役小角は、修験道の開祖として、黒珍は聞いたことありませんし、なぜ、役小角の弟子が、こんなところにいたんだろう?奈良とか京都じゃないんですか?役小角は、全国に足跡が残っていますから、弟子の黒珍も、役小角について全国を一緒について回って、ここに住んでいたのでしょうか。
調べても、専門家でない私には調べきれず、ただ、このあたりの隅田川沿いは、水上交通の要衝であったようで、人が集まる場所であったようです。
そうか、この辺りは、古代の交通の要衝で人が集まったのか。そんなこんなで黒珍は、ここに住むようになったのかな。なんの解決にもなりませんが、南千住あたりの古代の地方史のほんの一部が分かったので、満足です。
そして、素盞雄大神と飛鳥大神がなぜ光を放って現れたのか?本当か作り話かは、私にはどうでもよくて、作り話だとしたら、なぜその二柱なのか?
素盞雄大神は、伊邪那岐尊と伊弉冉尊の間に生まれ、天照大神と兄弟であり、男系天皇の祖先にあたります。一方の飛鳥大神は、百済より渡来した飛鳥戸造一族の祖神である飛鳥大神(昆伎王)のことらしい。
なんで、その二柱が光を放って現れたのか?男系天皇の祖神と、百済よりの渡来民の祖神が一緒に現れたのか?甚だ不思議であります。そこに何の意味が、何の含蓄があるのでしょうか?まさか、本当に光を放って、その二柱の神様が現れたなんてことないと思いますが、何か、その二柱を結びつけて祀る意味、必然があったのでしょうか。
天皇家と百済、それぞれの祖神が光を放って現れる。何なんでしょうね?
ネットを彷徨っていると、桓武天皇の時代に、下級貴族に陥っていた飛鳥戸氏が、再び力を持ったようで、その時代と、素盞雄神社の創建年代が重なるのです。朝廷で再び力を持った飛鳥戸氏、その影響力が、光となって現れたのでしょうか。
大阪に飛鳥戸神社という神社があるのですが、ここ、まさに、飛鳥戸氏が祖神、昆伎王を祀ったと謂れている神社なのです。で、この飛鳥戸神社は、江戸時代には、牛頭天王と称されていたようで、牛頭天王は、素盞雄大神のようなものなのですし、偶然なんでしょうが、不思議な巡り合わせだなと思います。
創建当初は、と言っても1200年も前の話になるのですが、素盞雄大神の社殿を西向きに、飛鳥大神の社殿を南向きに、二つの社殿を建てたそうです。そしてそのまま、二つのお社でお祭りしていたそうなのですが、江戸時代、享保3年(1718)、火災で消失してしまったそうで、享保12年(1727)に、二柱をひとまとめに祀る相殿になったんだそうです。
素盞雄神社のご由緒には、享保3年までのことが書いていないので、平安に建てられたお社が享保3年まで残っていたのだとしたらすごいですが、そんなことはないですかね。ちなみに、今の拝殿の背後にある本殿は、戦災で焼け残ったそうです。
拝殿の東側には、夥しい絵馬が。
拝殿の前にある銀杏の木にも、夥しい数の絵馬が奉納されています。
母乳の出ない母親が、この銀杏の木の皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁をまいて子供の成長を祈願したという言い伝えがあるそうで、お宮参りをした後に、このように絵馬を奉納するのだそうです。
松尾芭蕉が、千住大橋付近で詠んだ句「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」の句碑があります。素盞雄神社のサイトによれば、文人墨客が集まるサロンのような神社だったようで、この句碑も、ここに集まる文人達により建てられたんだそうです。
素盞雄大神と飛鳥大神が光を放って現れた塚は、富士塚となって残されています。この裏に奇岩(瑞光石)も残されています。
古資料に見る素盞雄神社
嘉永6年(1853)の江戸切絵図、「今戸箕輪浅草絵図」には、今と変わりない場所に「牛頭天王社」として書かれています。牛頭天王社の辺りは、小塚原町と書いてありますが、この小塚原は、光を放った瑞光石のある小高い塚からこの地名が付いたんだそう。そして、東に目をやると、仕置場と書いてありますが、小塚原刑場、処刑場ということです。その東には、山谷浅草町。そう、山谷というと、近代の東京で最大のドヤ街となった場所。そして、その南は、吉原遊廓。
古代には、人の集まる交通の要所だったところが、時を経るにつれて、なんだかそんな土地になったようです。
江戸名所図会には、「飛鳥社小塚原天王宮」として書かれています。神社の前には、茶や、みたらしなど書かれていて、街道筋の大きな神社ですから、茶屋などに人が集まり、賑わっていたのでしょう。
素盞雄神社の地図、アクセス
東京都荒川区南千住6−60−1
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