浅草寺境内にこんもりと小さな丘がある。これは弁天山と呼ばれ、小丘の上には弁天堂がある。
現在の弁天堂は、昭和58年(1983)に再建されたもの。浅草寺の本堂が昭和33年、雷門が昭和35年、仁王門が昭和39年、昭和48年に五重塔がそれぞれ再建され、浅草寺の境内は、戦後、長い年月をかけて過去の姿を取り戻していっている。
過去の姿を取り戻しているとは言え、今の弁天山は陸地が盛り上がっているだけだが、実は過去の弁天山は池の中にあった。その様子が江戸名所図会や、錦絵に残されている。
「江戸名所図会」(国立国会図書館) |
江戸名所図会の「金龍山 浅草寺 其二」の右上に「銭瓶弁天」と書いてあり、かなり大きく丘が描かれている。その丘の周りには池や橋が描かれている。
「江戸名所之内 浅草金竜山弁天山之図」広重(国立国会図書館) |
広重の描いた弁天山には、青々と、そして広々と池が描かれている。かなり風情のある景観だ。
確かに弁天様と言えば、池に祀られているものなので、今のような水辺の無い弁天堂はおかしいのだ。この池は埋め立てられてしまっていて、公園などになっている。水辺が残っていたら、風情があったんだろうけどなぁ。
ここの弁天堂の本尊は白髪なんだそうで、老女弁財天と言われているんだそうだ。弁天様というと、若くてキレイな天女様をイメージするのだが・・・浅草は違うのだ。
境内にある梵鐘は、元禄5年(1692)に徳川綱吉が改鋳させたもの。東京大空襲で鐘楼は焼け落ちたが、梵鐘は焼け残った。江戸時代には時の鐘として時を告げていた鐘。松尾芭蕉の「花の雲 鐘は上野か浅草か」という句で歌われた。
今でも毎朝6時に撞かれているし、浅草寺の除夜の鐘は弁天山のこの鐘が撞かれている。
弁天堂の前に梵字が彫られた石碑がある。これ「天保八年吉原仲の町山口巴屋とえ」と裏面に書かれている。吉原仲の町ということは、吉原遊郭ということですな。今でも吉原には仲之町通りという通りがある。山口巴屋とは女郎屋だったのかな。
日本舞踊家の花柳徳太郎氏が建立した「扇塚」と、松尾芭蕉の句碑。
松尾芭蕉の句碑は寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に建立されたもの。元は浅草寺本堂の北西に建てられたが、戦後、弁天山に移された。
都々逸塚と、添田啞蝉坊碑、添田知道筆塚。
とにかく、弁天山には、文芸に関わる石碑が多い。江戸からの芸能、文化の街であった浅草ならではなのだ。
浅草寺の地図、アクセス
東京都台東区浅草2−3−1
①雷門から本堂まで◀︎②弁天山
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