2023年4月16日日曜日

豊国山 回向院(小塚原回向院)|江戸の処刑場に建てられたお寺

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 江戸の二大刑場の一つ、小塚原刑場。もともとは浅草の聖天町(浅草寺の東)に刑場があったのが、寛文6年(1677)以前に日光街道を2kmくらい北の小塚原に移された。浅草が江戸の郊外の繁華街として賑わってきたからなのかな。
 繁華街の浅草から移されたとはいえ、日光街道に面していたというから人通りは多かったんだろうな。二大刑場のもう一つ大田区の鈴ヶ森刑場も東海道に面していた。それはやはり、罪に対する刑罰、磔、打首などをさらして犯罪を減らそうとする意図があったんだろう。


 江戸名所図会「今戸浅草箕輪絵図」には、「仕置場」と書かれている。浅草から続く山谷町までの市街地からは外れいているのが分かる。そして、南には吉原遊郭がある。
 また、刑場の間口がとても広いことが江戸名所図会からも見てとれる。実際、間口60間(108m)、奥行き30間(54m)であったそうで、街道に対して大きく間口が開かれていた。街道を往来する人々に晒すためなんだろうか。今では、小塚原刑場の跡地を分断するようにJRの線路があるのだが、この小塚原回向院と、線路を挟んである延命寺の境内がそもそも小塚原刑場跡地である。そう考えると日光街道に大きく開かれていたことが分かる。
 そして、この刑場での刑死者を供養するために、両国の回向院の住職が寺院を設立したのが、回向院の始まり。当初は常行堂といったんだそう。


 小塚原刑場では、刑死者の腑分け(解剖)も行われた。明和8年(1771)に、蘭学者の杉田玄白たちは、オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を携えて解剖を見にきて、その正確さに驚いた。その後、杉田玄白たちは、安永3年(1774)に「解体新書」を著したのだ。その記念碑「観臓記念碑」が小塚原回向院にある。
 複雑な気分になるが、日本の医学の発展のある部分は、刑死者の刑死者の上に立っていると言えるのだ。


 この回向院には、歴史的に名の知れている人物が葬られていたりする。特に目につくのが、江戸時代末期、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内などの政治犯の墓。彼らは、小塚原刑場で処刑されず伝馬町牢屋敷で処刑され、ここ回向院に葬られたのだ。
 明治維新の精神的支柱となった吉田松陰に関しては、その門下生だった高杉晋作や伊藤博文らによって松陰の亡骸を取り戻され、世田谷若林に改葬されている。


 回向院には吉田松陰の墓碑がそのまま残されている。墓碑には、久坂玄瑞の筆で「松陰二十一回猛士」と刻まれている。尊王攘夷、討幕の志士であった高杉晋作たちにとって、処刑場脇に葬られたのでは到底許せなかったのであろう。


 回向院入り口には吉展地蔵尊がある。これは、昭和38年に発生した児童誘拐事件の被害者を供養するために造られたお地蔵さん。

 南千住駅周辺は高層マンションが建ち始め、ショッピングセンターもでき、何だか小洒落た雰囲気になっているけど、すぐそこにかつての処刑場があって、そしてすぐ南にはかつて日雇い労働者の生活の場であった山谷のドヤ街があった。何ともいえない地域なのだ。

国山 回向院(小塚原回向院)の地図、アクセス

東京都荒川区南千住5−33−13


国山 回向院(小塚原回向院) 情報交換


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