日本橋人形町を散策しておりますと、多数のレトロ建築がに遭遇しますが、この日も、ご覧のような美しいレトロ建築を発見したのでありました。赤茶けたトタンなのか、塗装なのかよく分かりませんが、屋根はしっかりとした瓦屋根の商店です。「堀口商店」と書かれております。それにしても、レトロ建築な商店は、看板建築が多いのですが、この建築は商店というよりは、料理屋のような造りなのですが、いかがなのでしょうか。料亭のような雰囲気がありますが、このあたりも花街だったのでしょうか。知識の浅い私は、もう少し研究しなくてはなりません。
そのような自問自答は、今回の趣旨からは大きく離れますので、もう少し研究して別の会に譲るとしまして、この「堀口商店」さんの脇に、「出世稲荷神社」と赤い幟が立っています。
この辺りに、出世稲荷神社があるのかと辺りを見回しますが、全く見当たりません。しかし、幟が立っているくらいですから、この近辺にあるのでしょう。脇の路地を入ると、やはり、この路地は、ちょっと前までは飲食店が入る横丁だったのかなと思わせるような建物があり、実際に飲食店もあります。
建物と建物の間が駐車場になっているのですが、奥の建物の壁がむき出しになっている様は、あまりにも不自然で、この隣にも建物があったのですが取り壊されて、今は、駐車場になっているのかな、そうするとやはり、この間にも飲食店があったのかなと勝手に想像します。勝手な想像ですので、もっとよく調べてみます。
余談に花が咲いてしまいますが、それだけ私には興味をそそる路地であります。それにしてもこの路地にも出世稲荷神社らしきものはなく、幟だけがたなびいているのです。なんなのでしょうか。
そして、こレトロ物件をよく見ると。壁に出世稲荷神社の由来が書いてありました。
このレトロ物件の壁に由来が書いてあるのですから、このレトロ物件がある場所に、もともと出世稲荷があったのだろうと勝手な推測をし、この日の調査を終了しました。
しかし、その後、よくよく調べますと、このレトロ物件の向かいのマンションの一角に出世稲荷があるようです。背後にあったとは・・・
由来を見ますと、元和3年(1617)創建のようで、親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の屋敷内に祀られたというようなことが記載されています。この庄司甚右衛とは、吉原遊廓を創設した人になります。吉原遊廓の創設者・・・今で言うと、風俗王ですか。時代が変われば、風俗も文化になり、歴史ロマンを感じる錯覚に陥りますが、今に置き換えるとやはり、風俗王ですよね。そのような方が創設したお稲荷さん・・・
ですが、江戸時代、初代市川団十郎が日参し、出世した逸話もあるそうです。とは言え、歌舞伎も今では日本の一大芸能文化ですが、当時は、風俗上よろしくないと幕府から取り締まりを受けたりしていたわけです。要するに、この日本橋人形町は、行政(江戸幕府)から目を付けられるような大衆文化、風俗がお盛んだったと言うことなのでしょう。そのような日本橋人形町の歴史を伝えてくれる神社です。
また、この由来には江戸時代、このあたりは新材木町と呼ばれたと言うような記載があります。確かに、江戸切絵図の人形町あたりには、「新材木丁」があり、その付近にイナリの記載もあります。ですが、よく見ると「杉森イナリ」と書いてあるようですのでこちらは、椙森神社なのでしょうか。ちなみに、これより南に「甚左エ門丁」と言う記載があります。先に書きました吉原遊廓の創設者、庄司甚右衛門は、甚左衛門とも称していたようです。と言うことは、庄司甚右衛門にちなんで付けられた町名なのでしょうか。とすると、この辺りに庄司甚右衛門の屋敷があったのでしょうか。と言うことは、この辺りに出世稲荷があったのでしょうか。そうしますと、由来に書いてある新材木町とはかけ離れています。さらに良く見てみますと、新材木丁と甚左衛門丁の間の新乗物町付近に「岩代丁」があります。現在の地理的に考えても、この場所が一番しっくりくるような気がします。
しかし、その後、よくよく調べますと、このレトロ物件の向かいのマンションの一角に出世稲荷があるようです。背後にあったとは・・・
由来を見ますと、元和3年(1617)創建のようで、親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の屋敷内に祀られたというようなことが記載されています。この庄司甚右衛とは、吉原遊廓を創設した人になります。吉原遊廓の創設者・・・今で言うと、風俗王ですか。時代が変われば、風俗も文化になり、歴史ロマンを感じる錯覚に陥りますが、今に置き換えるとやはり、風俗王ですよね。そのような方が創設したお稲荷さん・・・
ですが、江戸時代、初代市川団十郎が日参し、出世した逸話もあるそうです。とは言え、歌舞伎も今では日本の一大芸能文化ですが、当時は、風俗上よろしくないと幕府から取り締まりを受けたりしていたわけです。要するに、この日本橋人形町は、行政(江戸幕府)から目を付けられるような大衆文化、風俗がお盛んだったと言うことなのでしょう。そのような日本橋人形町の歴史を伝えてくれる神社です。
また、この由来には江戸時代、このあたりは新材木町と呼ばれたと言うような記載があります。確かに、江戸切絵図の人形町あたりには、「新材木丁」があり、その付近にイナリの記載もあります。ですが、よく見ると「杉森イナリ」と書いてあるようですのでこちらは、椙森神社なのでしょうか。ちなみに、これより南に「甚左エ門丁」と言う記載があります。先に書きました吉原遊廓の創設者、庄司甚右衛門は、甚左衛門とも称していたようです。と言うことは、庄司甚右衛門にちなんで付けられた町名なのでしょうか。とすると、この辺りに庄司甚右衛門の屋敷があったのでしょうか。と言うことは、この辺りに出世稲荷があったのでしょうか。そうしますと、由来に書いてある新材木町とはかけ離れています。さらに良く見てみますと、新材木丁と甚左衛門丁の間の新乗物町付近に「岩代丁」があります。現在の地理的に考えても、この場所が一番しっくりくるような気がします。
御祭神
倉稲魂命出世稲荷の地図、アクセス
日本橋人形町の神社
とにかく、日本橋、人形町界隈には神社が数多くあります。しかも、江戸時代から都会でしたから、郊外にあるような大きな神社ではなく、街中に佇む、今となっては、ビルの谷間にひっそりあるような神社がたくさんあります。江戸時代の文化の中心地であった日本橋人形町ですから、江戸の文化、芸能、風俗と関係がある神社もあり、往時をしのばせます。
・小網神社
日本橋七福神めぐりの「福禄寿」。
日本橋界隈では珍しい、戦前の木造神社建築です。
・末廣神社
日本橋七福神めぐりの「毘沙門天」。
人形町の娼妓、芸者からも信仰の厚かった、吉原遊廓、吉原花街とともに歩んだ神社。
・椙森神社
日本橋七福神めぐりの「恵比寿神」。
江戸時代は富興行や花相撲が行われ、庶民に親しまれた神社です。今は、ビルに囲まれひっそりとあります。
・宝田恵比寿神社
日本橋七福神めぐりの「恵比寿さま」。べったら漬け起源の江戸商人の町の神社。
・茶ノ木神社
日本橋七福神めぐりの「布袋さま」。
ビルに囲まれた小さなお社。
・松島神社
日本橋七福神めぐりの「大国神」。
今では、ビルの一階にありますが、もともと、ここは島でした!
・銀杏八幡宮
銀杏が生い茂る緑豊かな八幡宮。
・橘稲荷神社
江戸時代は、町家に囲まれ、庶民から信仰を集めた神社でした。今では、ビルに囲まれています。
・水天宮
日本橋七福神めぐりの「弁財天」。
安産、子宝にご利益のある神社。
・橘稲荷神社
江戸時代は、町家に囲まれ、庶民から信仰を集めた神社でした。今では、ビルに囲まれています。
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