安産、子授けにご利益がある神社です。東京の中でも、安産、子授けでは有名な神社です。
そもそも、この水天宮は福岡県久留米市に本宮があります。また、全国各地に分社があります。東京の水天宮の歴史は、江戸時代に遡りますが、文政元年(1818)に、久留米藩の上屋敷のあった三田に藩主・有馬頼徳が勧進したのが始まりです。江戸末期ですので、それほど古い神社でもありません。
嘉永三年(1850)の「芝高輪絵図」には、見づらいですが有馬邸内に水天宮の記載があります。右上に増上寺山門がありますが、現在のザ・プリンスパークタワーあたりだと思われます。有馬邸の南には松平邸がありますが、こちらは現在の慶應大学三田キャンパスです。ちなみに、この広い有馬邸の土地には、現在、都立三田高校、区立赤羽小学校、済生会中央病院、三田病院などの公共施設が入っています。
芝高輪辺絵図 |
話は、水天宮に戻りますが、水天宮は藩邸内の神社ですので、当初は一般の人は参詣できませんでした。ですが、すぐに毎月5の日に一般の人も参詣できるように開放され、広く信仰を集めたようです。一般医開放されたことにより「なさけ有馬の水天宮」と言う地口が生まれました。
江戸時代の赤羽橋周辺は、錦絵に多く描かれています。川沿いの白壁の御殿は有馬家上屋敷になります。この白壁の中に水天宮があるのでしょう。下の「東都名所芝赤羽増上寺」の中にある右端の幟に「水天宮」と書いてあるように見えます。
東都名所芝赤羽増上寺(歌川広重) |
東都名所芝赤羽橋之図(歌川広重) |
明治維新後の明治4年(1871)、有馬邸が赤坂に移転することになったので、水天宮も赤坂に遷座しました。そして、すぐ翌年、明治5年に、現在の地、日本橋蛎殻町に移転してきました。
東京都印刷工業組合・日本橋支部の「日本橋”町”物語」によりますと、蛎殻町の旗本・戸田十三郎の屋敷跡に水天宮が移動してきたと書かれています。下の切絵図の赤丸の場所です。下の切絵図は嘉永三年(1850)版ですが、安政6年(1859)版には、青丸の部分は、有馬式部邸になっていますので、有馬邸に近い場所に移転してきたのだと思われます。
日本橋北神田浜町絵図 |
現在の社殿は、平成28年(2016)に建て替えられた社殿です。巨大なコンクリートの箱の上に建つ社殿は、ある意味、神秘的で異様です。
コンクリートの箱の上に建つ水天宮は、周辺のビルに埋もれることなく、存在感を保っています。
水天宮は、日本橋七福神めぐりの弁財天を祀っています。
ご祭神
天御中主大神安徳天皇
建礼門院
二位ノ尼
水天宮の地図、アクセス
日本橋人形町の神社
とにかく、日本橋、人形町界隈には神社が数多くあります。しかも、江戸時代から都会でしたから、郊外にあるような大きな神社ではなく、街中に佇む、今となっては、ビルの谷間にひっそりあるような神社がたくさんあります。江戸時代の文化の中心地であった日本橋人形町ですから、江戸の文化、芸能、風俗と関係がある神社もあり、往時をしのばせます。
・小網神社
日本橋七福神めぐりの「福禄寿」。
日本橋界隈では珍しい、戦前の木造神社建築です。
・茶ノ木神社
日本橋七福神めぐりの「布袋さま」。
ビルに囲まれた小さなお社。
・末廣神社
日本橋七福神めぐりの「毘沙門天」。
人形町の娼妓、芸者からも信仰の厚かった、吉原遊廓、吉原花街とともに歩んだ神社。
・椙森神社
日本橋七福神めぐりの「恵比寿神」。
江戸時代は富興行や花相撲が行われ、庶民に親しまれた神社です。今は、ビルに囲まれひっそりとあります。
・宝田恵比寿神社
日本橋七福神めぐりの「恵比寿さま」。べったら漬け起源の江戸商人の町の神社。
・松島神社
日本橋七福神めぐりの「大国神」。
今では、ビルの一階にありますが、もともと、ここは島でした!
・銀杏八幡宮
銀杏が生い茂る緑豊かな八幡宮。
・出世稲荷神社/岩代稲荷神社
江戸時代の大衆文化、風俗と密接な関係のあるお稲荷さん。どこにあるのか探すのが大変!
・橘稲荷神社
江戸時代は、町家に囲まれ、庶民から信仰を集めた神社でした。今では、ビルに囲まれています。
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